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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/01)
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石橋学さん (2024/05/07)
2016年11月号石橋学さん(パラグアイ).JPG
 今年(2016年)入植55周年の節目の年を迎えたパラグアイのイグアス移住地で、1976年から1期4年(現在は1期5年)初代イグアス市長を務めた経験を持つ石橋学(いしばし・まなぶ)さん(81、和歌山)。昨年(2015年)12月に2代目の日系市長である河野(かわの)マウロ氏(40、2世)が就任したが、初代市長就任から実に40年ぶりの日系市長誕生となった。父親がパラグアイのラ・コルメナ移住地創設に尽力した宮坂国人(みやさか・くにと)氏と親友関係にあったことなどから、41歳当時にストロエスネル政権の内務大臣に任命されて初代市長となった石橋さんは、イグアス移住地のさらなる発展を願い、河野市長の手腕に期待している。
 石橋さんは1936年9月、パラグアイ最初の日本人入植地だったラ・コルメナ移住地の初期入植者として父母、兄、叔父2人の計6人家族で「まにら丸」に乗船し、生後6カ月でパラグアイに渡った。石橋さんが父親から伝え聞いた話によると、移住地では綿などの栽培を行っていたが、32年から38年までボリビアとパラグアイの間で行われた「チャコ戦争」の影響で食料が不足。「(首都)アスンシオンに食料の買い出しに出たが、何もなかった」(石橋さん)こともあり、41年に石橋家族はエンカルナシオンに転住し、家族は大根、ナス、カボチャなどの野菜生産をして生計を立てたという。
 20代の頃に日本海外協会連合会(海協連、現JICA国際協力機構)の職員として働いた石橋さんは、戦後のパラグアイ日本人移住地の測量などの仕事に関わった。また、海協連(かいきょうれん)の日本本部採用職員となり、移住監督官としてパラグアイに移住する日本人たちをアルゼンチンのブエノスアイレスやブラジルのサントス港で出迎えたり、日本からアフリカ廻りの移民船「チチャレンカ号」や太平洋廻りの「ぶらじる丸」に移民たちと乗船した経験もあったそうだ。
 その後、父母たちはエンカルナシオンに残ったが、石橋さんは65年にイグアス移住地へと拠点を移した。
 父親の豆治(たんじ)さん(1990年頃に75歳で死去)は生前、ラ・コルメナ移住地を開く際に尽力した宮坂国人氏と親友関係にあったことから、フェデリコ・チャベス大統領(1949年~54年)や日本移民にも親しまれたストロエスネル大統領(54年~89年)と交流があったという。そうした影響もあり、76年に当時のストロエスネル政権のエズガル・イスラン内務大臣から石橋さんは、41歳の時にイグアス市長に任命された。
 「しょうがなく(市長を)やった」と苦笑する石橋さんだが、市長時代はシウダー・デル・エステ市を通じての日本製品の導入緩和や税金問題など、イグアス移住地に住む日本人及び日系人のために働いてきた。
 約40年ぶりにイグアス市から日系市長(河野マウロ氏)が誕生したことについて石橋さんは、「政治の世界は難しいが、移住地がさらに良くなるように日本人として期待している。移住地のためにも頑張ってほしい」」と河野市長へのエールを送る。 
 1978年に現在の上皇ご夫妻が皇太子同妃両殿下時代にイグアス移住地を訪問された際、石橋さんが市長として移住地を案内して説明を行ったという。今年(2016年)9月初旬には秋篠宮殿下の長女である眞子(まこ)さまが初めてパラグアイを初訪問され、イグアス移住地とともに、アスンシオンでの歓迎式典に招待された石橋さんは、充実した表情を見せていた。(2016年11月号掲載)


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松本浩治 :  
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