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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/01)
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奥山ユキイさん (2024/05/14)
2016年12月号奧山ユキイさん.JPG
 「若い時から働くことが癖になっていて、いつも何かやっていないと気が済まない」―。サンパウロ州レジストロ市内に住む奥山ユキイさん(89、北海道出身)は、姪(めい)が開いているフェイラ(青空市場)用の寿司や餅づくりを行っているほか、地元老人クラブである「レジストロ春秋会」に顔を出すなど、活動的な毎日を送っている。
 父親の門馬清治(もんま・きよじ)さんは北海道の釧路で、伐り出して来た材木を冬場は馬ゾリ、夏場は筏(いかだ)で製材所に運ぶ仕事をしていた。ブラジル移住の宣伝映画を見た清治さんは、「ブラジルの真っ平らな土地で製材所をやりたい」との夢を抱き、1933年6月、家族9人とともに「まにら丸」で神戸港を出航した。
 しかし、サントスの山ばかりの地形を見て、広大な大地を夢想してきた清治さんは、現実との違いに大きなショックを受けたという。ユキイさんは当時6歳。子供ながらに「どうしてこんなところに来なければならないのか」という気持ちを持っていた。 
 サントスからサンパウロ州ジュキアまで汽車に乗り、同じ北海道出身者7家族約50人が一緒に、セッテ・バラスの奥のキロンボという土地に入植した。同地では茶の栽培を中心に食糧用の米や豆を作ったが、土地は砂地で思うように生産できなかった。清治さんは材木を扱う仕事に慣れていたため、息子と一緒に大木を伐りだして、のこぎりを引いて風呂を作ったりもした。
 「何とかして土地の良いところへ」との思いを常に持っていた門馬家族は、ユキイさんが13歳の時、リベイラ川の川下にあるペロパーバに移転した。土地は良かったが、マラリアがひどかった。母親の水(すい)さんは出産間際にマラリアに罹り、セッテ・バラスにあった病院へ行くため、10キロの山道を辿り、リベイラ川を往来する船に乗せられ、やっとの思いで病院に着いた。しかし、戦時色が濃くなりだしていた当時、敵性国民として入院を拒否されたことがあった。
 ユキイさんは日本語学校には3年ほど通ったことがあるが、母親が身体が弱かったことなどから子供の頃から家事手伝いをすることが多く、とても勉学どころではなかったという。その後間もなく、ジュキアとレジストロの中間にあるセロッテに移転し、同地で炭焼きをして生計を立てた。戦争中で燃料が足りない時代、炭はよく売れた。
 24歳になったユキイさんは、親の薦めで日系2世の奥山幸雄(ゆきお)さん(2005年12月、80歳で死去)と結婚。幸雄さんが生まれ育ったミラカツへと嫁いだ。ユキイさんは夫とともに農業生産を行い、1男6女の子宝に恵まれた。
 「あの頃は男も女も同じように働きました。バナナを植えたり、カルピ(草刈)をしたり、とにかく何でもやらざるを得ませんでした」
 77年、子供の教育を考え、レジストロの街に出てきた奥山家族。同地に転住して来年で40年が過ぎようとしている。
 10年ほど前からユキイさんは、1935年当時に日本語学校の教師だった故・松村俊明氏が作詞した「リベイラ音頭」の意味を考えるようになったという。
 ♪「秘めた ひめたよ 昔の夢を 古い貝塚 チョイトソレ 河のそば・・・」
 「ブラジルに来て生きるのに大変で、以前は気付きませんでしたが、リベイラ川がいかに皆にとって大切かが、今頃になって分かってきた気がします」とユキイさん。自ら「リベイラ音頭」を歌ってみせてくれた。
 過ぎ去った年月だが、知らず知らずのうちにリベイラ川とともに生きてきたことをユキイさんは今、実感している。(2016年12月号掲載)


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松本浩治 :  
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