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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/01)
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伊藤鷹雄さん (2024/05/27)
2017年2月号伊藤鷹雄さん(パラグアイ).JPG
パラグアイのイグアス移住地内に昨年(2016年)、日本の「城」風の自宅を完成させた伊藤鷹雄(たかお)さん(73、岩手)。300町歩の土地で大豆などの農業生産と肉牛の放牧などを行い、「農牧輪換生産システム」という農産物の環境に調和させた独自の持続型家畜生産システムを生み出した。
 1960年代頃に東北6県の知事会議で、当時の千田正(ちだ・ただし)知事の提唱でイグアス移住地を中心に「南米東北村」建設構想が打ち出され、そのころ岩手県議会議員や教育委員長などを務めていた父親の勇雄(いさお)さん(故人)は、寒さの厳しい盛岡市薮川外山(やぶかわとやま)開拓をした経験から、「気候の良い所に行きたい」とパラグアイ行きを決意した。
 9人兄弟の三男である伊藤さんは当時、日本で建設資材のブロック会社を起業。既に結婚もしており、パラグアイに来ることは正直、快く思わなかったという。しかし、父親の希望に従い、家族の先発隊として1966年、23歳の時に「あるぜんちな丸」で海を渡った。イグアス移住地入植当初は、「全部ジャングル」(伊藤さん)で、山焼きを行ったり畑を開墾し、トウモロコシや大豆を植えて自給自足の生活を余儀なくされた。国道からは離れた場所だったため、「道も今のように良くはなく、人夫(にんぷ)たちが働きに来るのが大変だった」そうだ。
 68年には勇雄さんたち家族が到着。パラグアイで永住することを希望した勇雄さんだが、移住して7年後の75年1月に訪問先のブラジル・サンパウロ州ミランドポリス管内の「弓場農場」で腸閉塞を起こして、76歳で亡くなった。
 自分の意志でパラグアイに移住したわけでもなく、家長を亡くした伊藤さんは途方に暮れたが、「今さら日本に帰るわけにもいかず、ここで頑張るしかない」と自分に言い聞かせて活動してきた。
 その結果、現在では大豆を主要作物とした農業生産をはじめ、肉牛500頭を敷地内で放牧させているほか、約20年前から屠殺(とさつ)場も造り、牛肉を移住地内のスーパーマーケットなどに卸(おろ)すほどまでに生活を向上させた。
 また、前述の「農牧輪換生産システム」を自ら構築したことにより、農地と放牧地を数年ごとに輪換して、土地が痩せない工夫を凝らしている。同システムを見学するために、パラグアイの首都アスンシオンから大学関係者をはじめ、ブラジルやアルゼンチンの農牧業関係者が同地を訪問するなどし、伊藤さんが創り上げた輪換システムが世界的に広まりつつある。さらに、パラグアイの同システムが伊藤さんの農場から始まったことを記念し、2012年12月には敷地内に牛の記念碑が建てられた。
 そうした中で、伊藤さんが現在最も期待している事業がエコツーリズモ業だ。自身の土地内には人造湖の「イグアス湖」に面している場所があり、そこでは毎年3月から5月頃の大豆の収穫祭として、「牛の丸焼き」イベントを行う設備やキャンプができる施設が整っている。また、宿泊が可能なバンガローも建設中で、「毎日ここに来て、出来上がる様子を見るのが楽しみ」と伊藤さんは嬉しそうな笑顔を見せる。
 こうした観光業に力を入れるため、2015年4月ごろからエコツーリズモ人材育成プロジェクト専門家の入澤祐哉(いりさわ・ゆうや)さん(23、新潟)を日本から呼び寄せ、そのための調査を行わせるなど本格的な動きを実践している。入澤さんによると、パラグアイは観光業の今後の成長率が世界でもトップクラスで、将来的な潜在能力が大きいという。
 伊藤さんは、これまでイグアス日本人会会長やパラグアイ岩手県人会会長も歴任しており、パラグアイ政府も推奨する観光業を通じて外部から人々を呼び込み、移住地の将来のさらなる発展に期待している。(2017年2月号掲載)


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松本浩治 :  
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