移民百年祭 Site map 移民史 翻訳
マツモトコージ苑
     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/01)
前田定信さん [画像を表示]

前田定信さん (2024/06/03)
2017年3月号前田定信さん.JPG
 サンパウロ市パトリアルカ区に住む前田定信(ていしん)さん(92)はブラジル生まれ(二重国籍者)ながら、第2次世界大戦前に日本に渡り、1944年6月のマリアナ沖海戦に空母「竜鳳」の整備兵として参戦した経験を持つ。
 父親は親戚らとともに1914年頃に渡伯。その後に夫人を呼び寄せ、前田さんは長男として24年12月にサンパウロ州ジュキア線イタリリ近くのペドロ・トレドで生まれた。
 前田さんが1歳の時に母親が亡くなり、面倒を見ることが困難になった父親は26年7月、前田さんを連れて「らぷらた丸」で日本に一時帰国。沖縄県国頭郡羽地(はねじ)村(現・名護市)の祖父母夫妻に前田さんを預けた父親は後妻を娶(めと)り、再びブラジルへと戻って行った。 
 前田さんは地元の尋常小学校及び青年学校を卒業後、17歳だった42年9月1日に佐世保相浦(あいのうら)第2海兵団に志願して入団し、4等整備兵として第49分隊に配属された。しかし、第2次世界大戦前が始まる前にブラジルに住む父親から「戻って来い」との手紙が届いており、41年6月には日本発の船でブラジルへと旅立つ予定だったという。
 後から前田さんが伝え聞いた話では、当時の日本では満14歳以上の青年はスパイ容疑を問われるため、日本から海外に出さなかったそうだ。そのため、当時の沖縄県庁から、前田さんが41年6月に乗るはずだった船の出航が延期されたと通知があったが、後にそれが前述の理由で嘘の情報であることを知った。 
 戦後、55年にブラジルに渡った時に父親から「なぜ、あの時(41年)にブラジルに戻らなかったんだ」と言われ、後になってその理由を知り、説明したそうだ。
 海兵団で前田さんは、その後の階級改正で2等兵となり、佐世保、横須賀、大村での訓練を経て、44年3月に岩国基地で実践を経験。零戦の整備などを行った。同年5月13日には空母「瑞鶴」に乗艦し、台湾沖からフィリピンへ渡った。同月20日に同国のタウイタウイ島から空母「竜鳳」に乗り換え、航空戦の実戦演習後、6月16日頃に第1機動艦隊の第3艦隊第2空戦隊の一員として出撃。同19日、20日の2日間にわたって米軍艦隊と激戦が展開されたマリアナ沖海戦に参戦した。
 同海戦で「竜鳳」は米軍の魚雷攻撃は受けなかったが、右舷(うげん)に移動させていたアンテナの根元を米軍艦載機から爆撃された。当時、艦載機用のガソリンタンク車の固定などの作業を行っていた前田さんは直接の被害は無かったものの、爆撃による大波の勢いで海に落とされかけたという。旧日本海軍は同海戦で空母の「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」を失い、敗北した。前田さんは「水平線の向こうで(自軍の)空母が爆発するのを見たが、沈没して、それっきり何も見えなくなった」と回想する。
 44年6月23日に何とか沖縄県の中城湾に帰り着いた前田さんはその後、同年8月に松山航空隊に配属。茨城、宮崎、西大分などを転々とした後、翌45年8月15日、再び戻っていた松山航空隊で終戦を迎えた。
 しかし、前田さんらは終戦後の8月16日から同19日まで、戦時中と変わらぬ訓練を受けた。同20日に書類焼却の命令を上官が受け、翌21日に初めて停戦通知が前田さんたちに言い渡されたという。
 「内地」出身の戦友たちは、それぞれ故郷へと帰って行ったが、前田さんによると当時、沖縄と樺太出身者は故郷に戻ることができず、同隊で残務整理を行ったそうだ。
 終戦後2カ月経った10月20日頃、同期生の兄の紹介で前田さんは栃木県に行くことになった。同県の鉱山で働くことになり、トロッコを押したりもした。
 48年には沖縄県の羽地村にようやく戻ることができ、同地でハルさん(2016年2月に90歳で死去)と結婚。その後、「ブラジルに行けば、子供も安心して育てられる」と、日本で生まれた長女とハル夫人を連れて55年、オランダ船「チチャレンカ号」で生まれ故郷のブラジルへと渡り、伯国に呼び寄せた父親と約30年ぶりの再会を果たした。
 「その頃は朝鮮戦争もあったし、戦争を2回も体験したくないという気持ちがあった」と前田さん。ハル夫人は当初、ブラジル行きには反対したそうだが、まだ見ぬ故郷ブラジルへの思いが前田さんを動かしたようだ。
 渡伯後、サンパウロ州イタリリで4年間を過ごし、当初は地元で日本語学校の教師をしていた。その後、サンパウロ市に出てカンタレーラ(中央市場)の鮮魚店で働いたこともあったが、60年代にパトリアルカ区に移ってからは旧日本海軍で鍛えた整備兵の腕を生かし、電気技師として長年にわたって活動してきた。
 高齢となった現在も、地元のパトリアルカ日本人会で毎日のようにラジオ体操を行い、週に1回はゲートボールも楽しんでいる。新聞を読み、日記も毎日書いているという前田さんは、「海軍で鍛えたから、今も元気で生活できます」と充実した表情を見せていた。(2017年3月号掲載)


前のページへ / 上へ / 次のページへ

松本浩治 :  
E-mail: Click here
© Copyright 2024 松本浩治. All rights reserved.