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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/01)
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内村俊一さん (2024/06/09)
2017年4月号内村俊一さん.jpg
 「見返りは期待せずに、世のため人のために活動することで人生はチャンスが巡ってくる」―。こう語るのは、約20年にわたってサンパウロ日伯援護協会に寄付を行い、同協会の評議員や同施設の経営委員を務める内村俊一さん(81、熊本)だ。
 熊本県菊池郡泗水(しすい)村(現・菊池市泗水町)で6人妹弟の長男として育った内村さんは、父親の反対で高校に進学せず、中学卒業後に家業の酪農を中心とした農業生産活動を継いだ。その後、農業研修として1カ月間、神奈川県藤沢市で研修した体験により、「どこに行っても大丈夫という自信がついた」という。
 しかし、父親とは反りが合わず、海外への移住を思案。当時熊本県議だった増田義孝(よしたか)氏らに相談後、賛成意見を受けたこともあり、父親の反対を押し切って1960年6月11日に単身、オランダ船「テゲルベルグ号」で神戸港を出港した。内村さんが25歳の時だった。同年8月11日にサントス港に到着し、当初聞かされていた場所とは違うサンパウロ州エンブーの三浦という日系2世の農場に入植。半年ほど同所でトマトの植え付け作業などを手伝ったが、「自分の将来を考えると他の場所に行きたい」との思いと同郷者の紹介もあり、サンベルンナルド・ド・カンポの中川ユキオという戦前1世のもとに転住。同地で養鶏の手伝いなどをした。
 その後は農地を離れ、サント・アンドレ市近郊で洗濯機工場の製造などにも携わったが、同船者からサンパウロ市内にあった菓子販売店のうちの1軒を内村さんに任せたいとの話が持ち上がった。当初、内村さんは断ったが、中川氏のおじに当たる中川重太郎(じゅうたろう)氏から「お金を出してやるから(菓子)店を買え」と勧められ、62年7月にカンブシ区に菓子店を開店。翌63年6月には仲人の紹介で日系2世のヨシエさん(2008年に68歳で死去)と結婚。65年2月には菓子店の支店を同区に開店するなど商売で成功するようになった。
 渡伯2年後には、「外国を旅行させてやりたい」と思っていた実母がすでに故郷の熊本で58歳の若さで亡くなっていた。結婚当初から病弱だったヨシエさんとの間に子供はできなかったが、母親に叶えられなかった思いをヨシエさんに向けた内村さんは、渡伯して10年経った70年に大阪万博を一緒に見に行くために初めて一時帰国した。
 「いつも時代に合わせて仕事を行ってきた」と内村さんが話すように、日本への一時帰国を利用して、当時まだ日系社会ではあまり行われていなかったカラー写真現像技術の講習を京都府内の工業所で当初は3カ月の予定で受けた。しかし、三菱系列の同工業所の社長の「休みの日でも現像の機械を動かして、紙でも薬品でも好きに使っていい」との厚意により、練習を繰り返し、同技術を習得。当初の予定を延長して71年8月に帰伯し、翌9月、コンゴーニャス空港に程近いカンポ・ベロ区に新たにカラー写真店を開業した。
 また、74年5月にはピニェイロス区に支店を開けるなど業務を拡大。カラー写真店が日系社会でももてはやされ、時代に即した営業活動を内村さんは実践してきた。84年にはセントロ区に2軒目の支店を開設したが、当時は既にカラー写真店も数多くなっていた。内村さんは当時、コピー技術がブラジルに導入されていたこともあり、同支店をコピー機専用の店舗にしていったという。
 「よく働きましたよ」と振り返る内村さんは、カラー写真店時代は朝から夜中の2時頃まで働いていた経験もある。
 これまで開店した店舗は親類などに譲り渡し、84年に開いたコピー店も内村さんが75歳を迎えた2011年に閉店した。「(ヨシエさんからは)『60歳で仕事をやめたほうがいい』と生前に言われていましたが、仕事をしなくなると頭も体も弱くなる。自分が健康でなければ家内の面倒を見られなくなるので、結局は75歳まで仕事を続けました」と内村さん。生涯をかけてヨシエさんの面倒を見てきた。
 援協に寄付を行うようになったきっかけは、同協会の事務局長や副会長などを務めた山下忠男(ただお)氏と出会ったこと。1994年頃、病弱のヨシエさんがカンポス・ド・ジョルダンのさくらホームで2週間ほど世話になったことがあった。その頃から内村さんは、金銭、物品などを含めて毎月のように援協に寄付を行い、2010年頃からは援協の評議員をはじめ、同協傘下のあけぼのホームとPIPA(自閉症児療育学級)の経営委員も任されるようになったという。
 内村さんは写真店時代からブラジル人の使用人に、「他人に迷惑をかけてはならないこと」や「相手の立場になって物事を考えること」などを繰り返し説いてきた。
 「私は若い時から周囲の皆さんのお陰で生きてきました。見返りを期待せずに、世のため、人のために物事を行うことで人生には金がなくてもチャンスが巡ってくる。私は(高等)学校には行けなかったので、できる限り偉い人と付き合って自分で勉強してきましたが、何事も信用が大切だと実感しました。恩返しということがいつも頭にあります」と内村さんは、援協を通じた日系社会への支援活動を今なお続けている。(2017年4月号掲載)


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松本浩治 :  
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