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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/01)
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町田嘉三さん (2024/06/17)
2017年5月号町田嘉三さん.JPG
 「私の人生は常に試すことにある」―。こう語るのは、パラー州ベレン市を拠点に活動する空手家で、日本空手協会(JKA)ブラジル支部会長の町田嘉三(よしぞう)さん(71、茨城県出身、七段)だ。20年ほど前から道場を息子たちに任せながらも現役を貫き、指導者として各地を訪問する傍ら、ひたすら自分の進むべき道を試す日々を続けている。毎年2月頃にはサンパウロ州アルジャー市のニッポンカントリークラブで開催される同支部主催の空手昇段試験と審判・技術講習会に参加し、後進の指導を行っている。
 「ケンカに強くなりたい」と15歳で空手を始めた町田さんは、「他人のやっていないことをやりたかった」と日本大学農業土木科を卒業後、恩師から「アマゾンで働いてみないか」との誘いを受け、1968年に23歳で単身ブラジルに渡った。
 乗船した「あるぜんちな丸」では、「明治100年」を記念してNHKが移民ドキュメンタリー「10年目の乗船者名簿」を制作するため、スタッフが同行していた。
 「ハワイを過ぎるまでは船酔いでゲーゲーやっていたら、NHKのスタッフに『本当に空手やってるの。弱いね』と言われ、カーッと来てね。勢い込んでウイスキーを飲んだら、船酔いと酒の酔いが合っちゃって、それ以降は酔わなくなった」と町田さんは船中での出来事を振り返る。
 海外移住事業団(現JICA)の職員として、渡伯後すぐに第2トメアスー移住地の測量・区画整理などの仕事をしていた町田さんだが、徒手空拳、まさに何も無いところから空手の人生を貫こうとベレン市内で道場を開いた。
 しかし、その頃のベレンで空手は珍しい存在で、道場経営も思うように進まず、リオを経てサンパウロへ。同地で、元プロレスラーのアントニオ猪木実兄の故・相良寿一(さがら・じゅいち)氏の空手道場(松涛流(しょうとうりゅう)空手)で世話になった。全伯空手チャンピオン大会に出場し、型、組み手の両部門で優勝を果たし、ブラジルの新聞に写真入りで大々的に掲載されたことが町田さんの人生を飛躍させた。 
 バイア州から空手指導者としての要請があり、同地で道場を開設。「多い時には、一つの道場だけで1200人の門下生がいた」(町田さん)ほど栄えたという。
 「試し」の一環として、28歳の時にブラジル人女性と結婚。男ばかり4人の子供たちに恵まれた。三男のLYOTO(38、本名・町田リョウト)は、2000年にアントニオ猪木にスカウトされてプロの格闘家に。その後、米国の総合闘技団体UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)に参戦し、現在も現役で活躍している。 
 約10年間をバイアで過ごした町田さんは、ベレンに赴いて門下生を指導した際、「戻ってほしい」と懇願されたという。「それなら、お前の農場を俺にくれたなら戻っても良い、と半分冗談で言ったら、それが現実になった」と笑う町田さん。約束通り、再びベレンで道場を開設した。
 ベレンでは、何事も試してみようとの気持ちから、住み慣れたバイアからカカオの種を取り寄せ、ベレン郊外で6000本を植えたりもした。しかし、5年で失敗し、改めて空手一筋の道を歩んだ。 
 「人生50年。残りの人生は自分の好きなことをやる」と町田さんは、52歳の時に長男と次男にベレンの空手道場の経営を任せている。その一方で、「外国では武道の先生が負けると誰も来なくなる」との原則を守り、空手家として現役を貫き、指導のために全国各地を訪問している。
 また、2015年12月にはJKAブラジル支部の会長に就任し、今年も2月にパラー州ベレン市からサンパウロ州アルジャー市のニッポンカントリークラブに足を運び、空手の技術講習会で黒帯の有段者を対象に指導を実施。「師範とは単に技を教えるメストレではなく、模範とならなければならない。空手の技術も大事だが、大切なのは心。人格が必要になる」などと、高段者に対して実践的な技とともに「師範」としての心得をレクチャーしていた。
 「不安になったり、臆病になったり、あれこれ考えすぎるのはダメ。絶対に成功する、という気持ちが大切」と町田さんは、自らが歩んできた道を見詰めながら、「日々挑戦」の人生を歩んでいる。(2017年5月号掲載)


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松本浩治 :  
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