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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/01)
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白沢彰一さん (2024/07/02)
2017年7月号白沢彰一さん(パラグアイ).JPG
 1961年に入植が始まり、昨年(2016年)55周年の節目の年を迎えた隣国パラグアイのイグアス移住地。同地で活躍している1世移民たちは、今なお数多い。
 同移住地の玄関口とも言える国道7号線41キロ地点で、スーパーマーケット等を多角経営しているのは白沢産業代表の白沢彰一(しろさわ・しょういち)さん(75)だ。5人兄弟の三男として北海道で生まれ、イグアス移住地や首都アスンシオンなどで、兄弟がそれぞれガソリン・スタンド、サイロ経営、ゴマ栽培、無農薬トウモロコシを原料にした菓子製造など手広く事業を行っている。
 彰一さんは58年、16歳の時に両親と兄弟とともにフラム移住地(現・ラパス移住地)のフジ地区に入植した。
 父親の金太郎(きんたろう)さん(故人)は戦前の33年に、20代後半でブラジルに渡った経験があり、渡伯するまでは陸上選手として北海道で活躍し、オリンピックの陸上日本代表選手の補欠になったこともある。また、32年開催のロサンゼルス五輪で男子陸上三段跳び金メダリストの故・南部忠平(なんぶ・ちゅうへい)氏とも同じ北海道出身同士とあって親交があった。
 ブラジルで金太郎さんは、サンパウロ州バストスに入植。自身が日本で行ってきた陸上競技への思いが強く、自分の土地の敷地内に陸上用のグラウンドを造り、ブラジルの日系人たちを宿泊させて選手育成に力を注いだという。その際、前述の五輪金メダリストである南部氏をブラジルに招待し、指導してもらったこともあったそうだ。その後、気候の良いブラジルでリウマチが治ったこともあり、金太郎さんは戦前の44年頃に日本に引き揚げた。
 日本に帰国後、親戚の世話になりながら生活を続けた金太郎さん。「農業など、人の3倍は働く人でした」と彰一さんは、生まれ故郷の北海道で父親の背中を見て育った。
 スポーツマンだった父親の影響を受けて、彰一さんも小学校6年生頃から野球を始め、中学時代にも熱中した。長兄がその頃、大学でスペイン語と貿易関係の学問を学んでいたほか、「パラグアイ研究会」に入り、当時の海協連(かいきょうれん、日本海外協会連合会、現・JICA)に出入りするなど「将来は南米で貿易商として働きたい」との思いを持ち、南米移住に興味を抱いていた。父親の金太郎さんは再び南米で暮らすことに当初は反対していたが、長兄の意志は強く、結局は58年に金太郎さんを家長として家族でパラグアイに移住することに。白沢家族は8年間、フラム移住地で綿や大豆などの農業生産を行った後、66年に現在のイグアス移住地に移転した。
 「本当はパラグアイには来たくなかった」と語る彰一さんは、フラム移住地でも野球を続け、パラグアイ日系社会の野球界でサイドスローのピッチャーとして、ならした。「体力作りのために、昼間に250球から300球は毎日投げ込んで練習していた」と当時を振り返る彰一さん。18歳の頃には日本からスカウトが来たことがあり、「日本のプロ野球でやってみないか」との誘いを受けた。
 しかし、彰一さんは「自分たちは家族で開拓するためにパラグアイに来たのであって、野球をするためではない」と日本のプロ野球入りを断り、パラグアイに留まった。当時のスカウトからは「いやー、もったいないね」と惜しまれたという。
 そのほか白沢家では、兄弟がパラグアイで落花生栽培を成功させ、当時のストロエスネル大統領から認められ、パラグアイ北西部のチャコ地方に6万町歩の土地を譲り受けた。その土地の半分である3万町歩を故郷の北海道に寄付した経緯もあるそうだ。
 彰一さんは、「自分たちだけが良くなるのではなく、皆が良くならないといけない」と語り、現在もイグアス移住地のために活動している。(2017年7月号掲載) 


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松本浩治 :  
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