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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/01)
岡田慶典さん・ハマ子さん夫妻 [画像を表示]

岡田慶典さん・ハマ子さん夫妻 (2024/07/08)
2017年8月号岡田慶典・ハマ子夫妻.jpg
 パラー州サンタレン市に住む岡田慶典(けいすけ、79、宮崎県出身)さんと、ハマ子(81、山形県出身)さん夫妻。現在は、同市で日本食レストランを経営する長女夫妻と同居している。
 ハマ子さんの父・生田勇(いくた・いさむ)さんは山形県で化学肥料の卸問屋を行っていたが、海外に出たいという希望があった。当初はパラグアイに行くはずだったが、「海が無いのは大変」だと考え、山形県庁に応募が出ていた「ベルテーラ移民(ゴム移民)」の募集要項を送ってもらい、ブラジルに行くことを決意した。
 ハマ子さんは当時、19歳。1954年12月「ぶらじる丸」で神戸港を出港し、翌55年1月にベレンに着いた。その際、募集要項と船内で聞いた条件が全然違ったため、「それぞれの家長が、船を降りるか降りないかで3日ほどもめた」(ハマ子さん)という。
 生田家は、日本で家財道具をすべて売って携行資金を作ってきたため、今さら日本に戻るわけにもいかない。他の5、6家族がベレンで降りたのをきっかけに、自分たちも下船。薪船に乗り換え、ベルテーラに到着したのが同年の1月21日だった。 
 当時はまだ家も無く受入態勢が出来上がっておらず、とりあえず学校に住んでいた。生田家ら3家族はその後、セスナ用の飛行場の待合室を3つに区切り、生活の拠点を置いた。その一方で、ベルテーラの設備は意外にも整っていた。電話や病院施設もあり、病院にはレントゲンもあったという。
 ベルテーラでの仕事はゴム採取が最も重要で、そのための実技試験が必要だった。技術職なので、給料も良かったが、ゴムを効率良く採取するためには(ゴムの樹の)薄皮を一枚残さなければならない。手先が器用でなければできない仕事だが、家長の勇さんが一番上手だったそうだ。
 ハマ子さんの担当は野菜栽培で、ネギ、キュウリ、ナスなど食糧用の野菜を植えた。それ以外に、労働者の出欠簿をポルトガル語で付ける仕事などもさせられた。仕事をした分、月給ももらえ、数カ月ほどが過ぎた時だった。支配人の越智(おち)氏から緊急召集がかけられたと思うと、「ベルテーラでは今日限り仕事ができない。ここから出て行ってくれと言われた」と、いきなりの退去命令を受けた。
 退去命令を受けた時に問題になったのが、受入責任者だった辻小太郎(つじ・こたろう)氏に渡伯の際に預けていた、携行資金の利子の支払いを要求されたことだった。入植者たちは反論したが、どうしようもない。結局、携行資金は返してくれたが、辻氏から「自分たちで経費を払ってもらわなければならないが、君たちの行きたいところに行きなさい」と言われ、3家族一緒にアレンケールに転住した。
 ハマ子さんは56年に、同船者で岡田家の三男・慶典さんと結婚。2年間をアレンケールで暮らしたが、弟妹たちの教育の問題もあり、57年1月頃にベルテーラに戻った。再び家族でゴム切りなどの仕事を始めたが月給が遅配し、肉などの物はあるのに金が無い状態が続いた。迷った挙句、59年8月、家族でサンタレンに出ることになり、大衆食堂を始めた。ハマ子さんは、日本で母親から様々な料理を習っていたことが役立ったと当時のことを振り返る。
 夫の慶典さんは、サンタレンとクイアバを結ぶ道路作りを担当する陸軍関係者に呼ばれて、兵士用の野菜類の仲買の仕事を依頼された。
 「道路が無い時代、飛行機に野菜類を積んで現場に投下するんだから、今じゃ考えられないよね。その仕事を65年頃から5年ほど続けた」(慶典さん)
 その後、食堂の仕事は一時中断し、ボーキサイト会社からも野菜作りの依頼が舞い込んだ。仲買以外に自身でも葉野菜づくりをし、同社の専用機で「パラー州内を1週間に1回は現場に飛ぶ」生活を78年頃まで行なった。
 仕事ぶりが知人を通じて伝わり、次から次に仕事が入った。アマパー州の商社から金の採掘に関わるあらゆる品物の輸送の仕事の依頼や、JICAから融資を受けてピメンタ作りをやっていたこともあった。
 82年には、現在長女夫妻が経営するレストランをサンタレン市の幹線道路沿いにつくり、その間も野菜作りなどを続けた。99年にはベルテーラの郡長に頼まれ、渡伯後3回目となる同地に転住。父親の勇さんの療養も兼ね、旅館(ポザーダ)と食堂業を営業。その後、勇さんは2005年6月に88歳で亡くなり、2カ月後にハマ子さんたちはサンタレンに戻ってきた。
 ハマ子さんは、最初の退去命令でベルテーラを出された時のことを晩年の勇さんに聞いたことがあった。「どうして、あの時、辻(小太郎)さんに条件が違うと強く抗議しなかったのよ」と。勇さんからは「過ぎたことは、しょうがないだろ」との答えが返ってきたという。
 「父(勇さん)は軍人あがりだったので、見た目には取っ付きにくいけれど、本当は真っ直ぐでとても良い人でした。『恥ずかしい思いをすることなく、しっかりやれ』とよく言われましたね」
 ハマ子さんの心の中には、今もベルテーラでの思い出が残っている。(2017年8月号掲載)


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松本浩治 :  
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