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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/01)
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阿久津みのさん (2024/07/16)
2017年9月号阿久津みのさん.jpg
 サンパウロ市ジャルジン・セレステ区に住む阿久津(あくつ)みのさん(茨城県出身)の100歳を祝う誕生日会が今年(2017年)7月1日、サンパウロ市内モエマ区の日本食レストランで開催され、家族や親戚など約50人が一堂に会した。みのさんは、6人の子供たちをはじめ、孫、曾孫らにも囲まれ、嬉しそうな笑顔を見せていた。
 みのさんは1935年、18歳の時に同じ茨城県人で、同い年の孝雄(たかお)さん(故人)と若くして結婚している。
 23年6月、6歳の時に家族に連れられ、「かながわ丸」で渡伯した亡き夫の孝雄さんは、サンパウロ州レジストロ近郊のセッテ・バラス移住地に家族と入植した。しかし、母親は翌年病気に罹り、早期に亡くなっている。その間、家族はサンパウロ州ノロエステ線リンス西部の上塚第2植民地で4年間の契約農として、コーヒーを生産。契約終了後にパウリスタ線マリリア管内の第1昭和村に土地を購入後、第2昭和村に移った。孝雄さんの父親も病気がちだったこともあったため、2人は18歳同士で結婚。3男3女の子宝に恵まれた。
 結婚後の47年、家族でリオ州バイシャーダ・フルミネンセに転住し、その後、INCRA(農地改革院)の分譲地だったサンタ・アリッセ植民地に入植。孝雄さんは、リオ州日伯文化体育連盟の地方理事や書記を務め、野球大会のスコアラーやアナウンス係などを率先して引き受けた。また、日本の海上自衛隊練習艦隊が来伯した際は歓迎会の司会を行うなど、同連盟発展に貢献してきたという。さらに、68年にはサンパウロ市に移転し、孝雄さんは自営業や企業職員などとして働き、みのさんは夫と家族を支えてきた。
 2005年9月には、夫妻揃って米寿と結婚70周年を迎えた祝賀会を子供らがサンパウロ市内のレストランで催し、阿久津さん夫妻は「人生最大の喜びです」と満面の笑顔で応えていた。
 当時の祝賀会で「70(歳)の手習いで始めた俳句や短歌を生活の糧として、余生を過しています」と話していた孝雄さんさんは、サンパウロ歌壇や老人クラブ連合会(現・熟年クラブ連合会)の俳句などにも投稿し、その時々の思いなどを次のように表現していた。
 「恵まれし 余生を過ごすこの日頃 受くる労(いたわ)り ただ感謝して」
 しかし、翌06年7月には孝雄さんが89歳で亡くなり、みのさんは現在、長女のネウザさん(75、2世)と一緒に住みながら余生を過ごしている。
 17年7月1日に行われた、みのさんの100歳の誕生日会では、三男のラウールさん(70、2世)が乾杯の音頭を取り、出席者への感謝と母親への愛情を表した。 
 会場には、みのさんの実弟で日系福祉団体・希望の家の理事などを務めた松本昭三(しょうぞう)さん(88、茨城)も家族らとともに姿を見せ、松本さんから祝儀を渡されたみのさんは嬉しさのあまり、感極まっていた。
 松本さんの娘の村沢ケイコさん(60、3世)は、伯母のみのさんとの思い出について「(みのさんがサンタ・アリッセ植民地に住んでいた際)私たちはよく『リオのおばちゃん』と呼んでいましたが、その頃から優しくしてもらっていました。(伯父の)孝雄さんは、リオからサンパウロに移って来た時、父(昭三さん)と一緒に木工会社で柱時計の箱を作っていました」と振り返り、懐かしそうな表情を見せていた。
 みのさんの面倒を見ている長女のネウザさんによると、みのさんは毎日午前7時半頃には起き、時折、家の中を歩いたりして体を動かしているという。「パパイ(孝雄さん)が(06年に)亡くなった時、ママイ(みのさん)も長くは生きられないと思っていましたが、こんなに長生きしてもらって嬉しい」とネウザさんは、母親の100歳の誕生日会が開催できたことを兄妹たちとともに喜んでいた。(2017年9月号掲載) 


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松本浩治 :  
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