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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/15)
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佐々木すえのさん (2024/07/29)
2017年11月号佐々木すえのさん(ピラール).JPG
 「果物の里」と呼ばれ、サンパウロ州の聖南西(せいなんせい)地域にあるピラール・ド・スール市は、サンパウロ市近郊のサント・アマーロ(現在のイタペセリカ・ダ・セーラ)に住んでいた長浜栄蔵(ながはま・えいぞう)氏、東郷善造(とうごう・ぜんぞう)氏、山畑国司(やまはた・くにじ)氏の鹿児島県出身者3家族が草分けとして、1945年に入植したことが同地発展の始まりと言われている。 
 その後、他所からの日本人が現在のピラール・ド・スール管内のセルトン分譲地、バーラ地区、スール植民地、東山(とうざん)植民地などにそれぞれ入植した。
 各地で日本語学校が創設され、中央日本人会結成の機運が高まり、1953年に48人の創立会員により現在の「ピラール・ド・スール日伯文化体育協会」が設立。来年(2018年)
、同協会は創立65周年の節目の年を迎える。
 入植当初からトマト、バタタ生産を行っていた同地では、その後にコチア産業組合、南伯農協、バンデランテス組合、サンパウロ中央組合の単協がそれぞれに入るなどし、生産及び流
通面で活況を呈していった。60年代前後にイタリアブドウを主作とした営農を転換。大豆、フェイジョンなどの穀物類生産と並行して、ポンカン、リンゴ、桃、柿、アメイシャ(スモモ
)や洋ナシなどの果樹栽培も始めた。
 また、近年では同地オリジナルブランドのデコポン「金星(きんせい)」の生産のほか、APPC(パウリスタ柿生産者協会)を通じて富有(ふゆ)柿、アテモヤをブラジル国内をはじめ、欧米にも輸出。現在も40代前後の若手農業者が果物栽培を行うなど、先人たちの思いを継承している。
   ◎   ◎
 故・河津寅男(かわづ・とらお)さんの妹に当たる佐々木すえのさん(86、熊本)は、文協創立会員の夫人の一人として現在も、バーラ地区で暮らしている。
 「小学校4年生だった」というすえのさんは41年、「ぶえのすあいれす丸」で家族と共に渡伯。サンパウロ州ドゥアルチーナに入植し、家族はカフェ栽培に従事した。ドゥアルチーナ時代は「戦争でひどい状態」で、日本語を話したと言ってはブラジル人から非難され、「近くのパイナップル畑に逃げ込んだこともあった」という。
 兄たちと一緒に現在のバーラ地区に転住したのが49年ごろ。同地の草分けで、パトロンだった故・牛嶋分(うしじま・わかつ)氏の耕地に入植した。
 「12~13歳ごろからカマラーダ(日雇い労働者)のように働いてきましたが、バーラ地区に来ても道づくりのために泥などを運ぶ仕事を牛嶋さんから言われてやりました。そのころは男も女も関係なく、できない仕事でも何でもやらされました。牛嶋さんは頑固な人でしたけれど、あの人が居たから今までやって来れたと思います」と、すえのさんは同地で長年にわたって働いてきたことを思い出す。
 「まだ空が薄暗いうちから起きて仕事をしてきましたが、一つも儲けになりませんでした。朝ご飯を食べたら雨でも何でも仕事をし、当時は楽しみなど、ほとんど無かった。牛嶋さんの倉庫にシネマ屋が来ていたことがあったけど、(独身時代は)ナモーラ(恋愛)などする暇も無かったね」と、すえのさん。その牛嶋さんの世話で同地に住んでいた佐々木家の三男だった隆一(たかいち)さんと23歳で結婚。一男一女をもうけたが、隆一さんは心臓まひにより、35歳の若さで急死。その後、すえのさんは佐々木家次男の正一(まさいち)さんと再婚したが、正一さんも79年に70歳で他界し、2人の夫を亡くしている。
 そうした過酷な生活の中でも「日本に帰りたいと思ったことはなかった」というすえのさん。90年に渡伯後初めて日本に戻り、古里の熊本県を訪ねたが、「昔知っていた人は誰もおらず、思い出はあっても知らない土地になっていた」とし、「もう日本には行こうと思わない」と話す。
 2人の夫を失ったすえのさんだが、それぞれの息子たちが共同で農地を経営し、現在、ブドウ、アテモヤ栽培やユーカリ樹の植林なども手掛けている。
 「今はたまに(ピラール・ド・スール日伯文化体育協会の)会館に行って、のど自慢を聴きに行ったりしています」と楽しみを話すすえのさんは、「体は元気で、毎朝農場の中を2キロぐらい歩いていますよ」と目を細めた。(2017年11月号掲載) 


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松本浩治 :  
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