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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/15)
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田中明義さん (2024/08/06)
2017年12月号田中明義さん(ペドラ・リーザ).jpg
 1952年に日本人が入植して、今年(2017年)で65年が経つリオ・デ・ジャネイロ州のペドラ・リーザ移住地。同移住地初期入植者の一人が、2005年当時で81歳だった田中明義(あきよし)さん(高知県出身、故人)だ。トマト生産で財産を築き、半世紀以上にわたって同移住地に留まった。
 リオ州日伯文化体育連盟30年史『あけぼの』等の資料によると、ペドラ・リーザ移住地はリオ市中心地から北西方向に約80キロの地点に位置する。52年に先住者だったブラジル人の権利を譲り受けた形で、萩原金次(はぎわら・きんじ)氏が日本人の草分けとして入植。次いで、上江洲智平(うえず・ともへい)氏、百瀬政本(ももせ・まさもと)氏が入植したが、当初は雨が降れば橋が流され、道は泥濘(でいねい)化して不通となり、低地は浸水する状況だったという。
 翌53年になってブラジル農務省が浚渫(しゅんせつ)機によって排水溝を大幅に整備したことで、それまでわずかな土地でしかできなかった農業生産が可能になった。そのことで後続の日本人入植者も増加。トマト栽培を主にして開始された営農は、次第に他の蔬菜(そさい)類の生産に移るようになり、現在では果樹のゴヤバ(グアバ)を永年作物とした農業を日系2世、3世たちが中心となって営んでいる。
 また、同移住地を管轄するジャペリ市は、20年以上前にノーバ・イグアスー市から独立。2002年には同市の協力により、入植50周年記念碑が移住地内に建立された経緯がある。
 田中さんは1952年2月、オランダ船「テゲルベルグ号」で約80日かけてリオに到着。当時は戦後の日本人移住再開の前で、同じ高知県出身の夫人・久子(ひさこ)さんの兄が戦前からブラジルに移住していたことから、呼び寄せてもらったという。
 渡伯してすぐに義兄を頼ってリオ州イタグアイに入り、同地で1年ほど過した後、移住地ができた翌年の53年にペドラ・リーザに入植した。「その頃は4、5家族しか日本人がおらず、地権もなかった」と話していた田中さん。義兄がコチア産業組合の組合員だったことから、自身も同じ組合員となり、トマトの生産で財産を築いた。
 「トマトは儲かったよ。(リオ市セントロにある)プラサ・キンゼに品物を持って行ってね。54年にはトラトール・ノーボ(新しいトラクター)を買って、本当に景気が良かったよ」
 当時の多くの日本移民がそうであったように「一旗挙げて日本に帰ろう」と思ってブラジルに来た田中さんだが、「子供が大きくなってくると、帰るに帰れないようになった」そうだ。
 田中さんは第2次世界大戦中、長崎県大村(おおむら)にあった海軍病院で衛生兵として詰めていた経験を持ち、1945年8月9日に長崎に原爆が投下された当時は21歳の若者だった。
 「大村と長崎は30キロほど離れているんだが、最初に空が『ピカッ』と光ったと思ったら、物凄い爆音があとから来た」
 原爆が投下された翌10日、田中さんは他の兵隊を連れて死亡者や怪我人の収容作業のため、長崎市内に入った。いわゆる、「入市(にゅうし)被爆」だ。
 長年、海外在住被爆者として正式に認められず、日本から2年に1回来伯する医師団の定期健康診断を受けるだけだったが、2004年11月に約50年ぶりに日本に帰った際、ようやく被爆者として認定され、健康手当ての受給も実現したという。
 リオ入植当時の悪友たちに囲まれ、歯に衣着せぬ物言いで当時の昔話を懐かしんでいた田中さん。半世紀以上にわたって留まってきたペドラ・リーザの地で、晩年は悠々自適な日々を過した。(2017年12月号掲載)


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松本浩治 :  
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