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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/15)
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丹下セツ子さん (2024/08/13)
2018年1月号丹下セツ子さん.jpg
 「舞台に上がる以上、お客さんに喜んでもらえなければ意味がない」―。こう語るのは、「女剣劇(おんなけんげき)旅役者」としてブラジル全国を回った経験を持ち、渡伯して再来年(2020年)で55年になる丹下セツ子さん(77、東京都出身)だ。
 セツ子さんの母親である故・丹下キヨ子さんは日劇ダンシングチームに所属し、水の江瀧子氏、宮城千賀子氏とともに「初代三人娘」と言われた有名な芸能人。その母親よりも、「娘義太夫(むすめぎだゆう)」になりたかったという祖母の影響を受けたセツ子さんは、自然と芸事にも興味を持った。「子供の頃は『弱きを助け、強きをくじく女ヤクザ』になりたくて、そのことを先生に話したら、廊下に立たされたよ」と笑う。
 その後、「女が男どもをバッタバッタとなぎ倒す『女剣劇士』」に憧れ、その道の草分けである不二洋子(ふじ・ようこ)氏に師事。「日本で大衆劇団をつくり、その座長になりたい」との夢を抱いた。しかし、1960年代当時、大衆劇団をつくるのには当時で100万円もの大金が必要だった。その間、キヨ子さんは南米銀行創立15周年記念イベントとしてブラジルでのショー出演に招待され、全伯各地を訪問。キヨ子さんはブラジルが気に入り、家族を呼び寄せることに。
 長女のセツ子さんはその頃、大衆演劇に夢中で海外に行く気などなかったが、キヨ子さんから「ブラジルに来て1年もやれば、(大衆劇団をつくる資金の)100万円くらい出すことはできるわよ」と言われ、その気になった。
 当初、移民船の「さくら丸」で来る準備を整えていたが、カルナバル時期でキヨ子さんの配慮もあり、結局は65年に飛行機でブラジル入り。キヨ子さんはその頃、「パール」という店をサンパウロ市のアウグスタ街で経営。店の舞台でキヨ子さんが司会し、セツ子さんが出演するという「日本でも滅多に見られない舞台」を行なったりもした。
 その後、1年ほどしてセツ子さんの妹が「日本に帰りたい」と言い出し、店を継ぐ意思も無いセツ子さんは困惑した。その時に世話になったのが、現在のボサノバ歌手の第一人者である小野リサさんの両親だったという。当時、小野さんの父親の下で働いていた日本人の板前さんが、セツ子さんたちに「一緒に店を開けましょうよ」と誘ってくれ、ブリガデイロに開けたのが「左膳(さぜん)」という日本食レストランだった。
 しかし結局、キヨ子さんと妹たちは日本に帰り、思いがけず自分だけがブラジルに残ることになったセツ子さんは、「旅役者」として仲間とともにブラジル各地を飛び回ることになった。
 「ブラジルに来て1年目から旅回りは、やっていた」というセツ子さんだが、「丹下セツ子劇団」を正式に立ち上げたのは、渡伯10年目のこと。音楽家の故・島田正市(しょういち)さん、司会者、着付け師など8人ほどでメンバーを組み、全伯各地の日本人移住地を中心に「来てほしいと言われたところには、どこにでも行った」という。
 「自分の足で旅回りをしてみて、『ブラジルにはこんなに日本人が居るのか』って改めて思ったね。『死ぬ前に、こんなに良い舞台が見られるとは思ってもいなかった』と抱きついて来る人や、私の手を握って自分のはめていた指輪を握らせる女性なんかもいてね。『よし、ブラジルの日本人のいる場所を全部回ってから日本に帰ろう』と思ったけれど、ブラジルは広いから、なかなか帰れないわけよ」とセツ子さんは、ブラジルに留まることになった理由を説明する。
 旅回りの中でもセツ子さんが特に印象に残っているのが、北伯ベレンとトメアスーを訪問した時のことだ。スポンサーが付いてくれ、初めてアマゾン地域に行く念願がようやく叶ったが、劇団員一行がベレンに着いて数日経った時、80年代半ば当時のタンクレード・ネーベス大統領が死ぬか死なないかの瀬戸際という情報が舞い込んだ。
 「せっかく実現した公演が、大統領が死んじゃったんじゃあ、できなくなる。トメアスーまでの道をベレンからバスで行くんだけど、その頃はまだ道が悪くて振動がすごくてね。その影響で劇団員の1人が脳卒中で倒れちゃって、バスの後ろから救急車が来たりして。『(大統領も劇団員も)2人とも死ぬなよー』なんて祈りながら、何とか無事終えて。ほんと、一生忘れられないよ」
 当初は日本の大衆演劇の座長として舞台に立つことを夢見たセツ子さんだが、ブラジルに滞在して30年ほど経った頃から「芸人なんて、どこで花が咲いたって同じ。『セッちゃんが出るから見に行きたい』なんてお客さんが言ってくれる。ブラジルで伝説の人になろうと思ってきた」という。
 旅回りについては、NHK国際衛生放送が日系社会でも視聴できるようになった90年代後半頃から、「(日本の本物の芸を見せたいという)私の役目は終った」と感じている。
 しかし、それでも「次に生まれ変わっても芸人になりたいよね」と語るセツ子さん。芸一筋の熱い思いが、キラリと輝いた。(2018年1月号掲載)


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松本浩治 :  
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