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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/15)
岩畑公男さん [画像を表示]

岩畑公男さん (2024/09/01)
2018年3月号岩畑公男さん.jpg
 戦後、日本の国策による第1回移民として、南マット・グロッソに入植した松原移民。和歌山県出身の戦前移民でサンパウロ州マリリアに在住していた故・松原安太郎(やすたろう)氏が当時のゼツリオ・ヴァルガス大統領から受け入れた枠により実現し、計60数家族が1953年、3次に分かれて海を渡った。しかし、整っていると聞いていた希望の地は苛酷な道づくりから始まり、血と汗と涙で開いたカフェ農園は、度重なる大霜の被害に遭遇。全滅に近い状況に追い込まれた。「テルセイロ・リンニャ(第3線)」と呼ばれる移住地には現在、わずかに数家族しか残っていないが、移住地を出た人々、残った人々はそれぞれの道を歩みながらも、松原移民であることに誇りを持っている。
 10数年前までドゥラードス市内でメルセアリア(食料品雑貨店)を経営し、現在は長女夫婦に店を任せている岩畑公男(まさお)さん(84歳、和歌山県田辺市出身)は53年7月8日、第1次船(オランダ船・ルイス号)でサントス港に到着した。
 渡伯を決めたのは父親で、「自分の考えはなく、すべては父親に任せていた」という。当時、岩畑さんは19歳。和歌山では米、麦作をはじめ、みかん作りなど農業をやっていたこともあり、移住地での生活には不安感は抱いていなかったようだ。しかし、カフェづくりはやったことがない。「何とかなるやろ」―。そういう気持ちだった。
 ドゥラードスから西に約80キロ離れたイタウン駅に着いた第1次船約20家族の一団は同地の簡易収容所に入り、15歳以上の男性はすべて道づくり作業に従事した。ある程度、原始林の大木は事前に切り倒されていたが、そのことが余計に道づくりを手間取らせたようだ。倒れた大木を避けて道なき道を開くために、約2カ月半の時間を要している。現場にはところどころ測量をしたと見られる杭が立てられていたが、原始林は色濃く残っている。その間、男性たちは茅(ちがや)や椰子の葉などで屋根を葺(ふ)いた「サッペ小屋」をつくり、密林に寝泊りしなければならなかった。
 移住地は現在、「テルセイロ・リンニャ」と言われているが、その由来は幹線道路から数えて3つ目の道にあることからきているようだ。移住地の土地は各家族に1ロッテ30ヘクタールずつがくじ引きで分けられ、その区画は間口250メートル、奥行き1250メートルと均一で、移住地は碁盤の目のようになっていた。
 入植したものの、基本的な日用品の配給以外は食糧も足りない。1年目はとりあえず、陸稲(おかぼ)、フェイジョン豆、ミーリョ(トウモロコシ)など食糧用作物を植え、カフェを植えだしたのは翌54年に入ってから。岩畑さん家族は1アルケール(約2・4ヘクタール)に1800本、2アルケール分のカフェを植えた。
 カフェ栽培も皆やったことがない。当時は種から植えて、1年間で伸びた苗はわずかに15センチほど。スコップで土中に20~30センチほどの深さの穴を掘り、その上に木蓋(きぶた)を乗せるというやり方だった。1年かけてやっと生長した苗も霜害に遭うこともあったが、土中にあるものは生長の遅さが幸いして逆に難を逃れた。
 そうした中、困ったのは水がなかったことだ。井戸を掘るブラジル人の業者に頼んでも言葉の問題などで、なかなか来てはくれない。岩畑さんは、移住地から2キロ離れた川に水を汲みに行くことが日課だった。1樽18リットルの水を両側に天秤(てんびん)棒で担ぎ、それを何度も往復する。「和歌山でもやっていたから、苦とは思いませんでした」と岩畑さんは淡々と語るが、その過酷さは想像に難くない。
 入植して4年目の56年、カフェの初めての収穫だが、獲れたカフェはわずかばかり。本格的な収穫は翌57年から。実がなりすぎて木が枯れたようになり、岩畑さん家族は木を回復させるために2年間、生産活動を休んだという。
 「金の成る木」と言われたカフェをあてにしてブラジルまで来たが、霜害などで思ったような生産ができない。合間に牛や豚を飼い、生活を支えるだけで一日一日が過ぎていった。
 ドゥラードスに出るきっかけになったのは、子供たちの教育面を心配したからだ。76年頃、父親が孫を連れてドゥラードス市に移転。81年には岩畑さんも移住地を出て、同市内にメルセアリアを開店した。創業費用は移住地の土地を売却してまかなった。
 岩畑さんに移住地での思いを聞いたところ「(何と言っていいのか)分からんね」との返事だった。「(移住地にいた頃は)明けても暮れても仕事だけだった。今は店も娘夫婦たちに任せているし、家でテレビを見たり、夫婦で(宗教の)生長の家に行ったりして、ブラジルに来て一番落ち着いた。今はもう百姓はやりたくないね」との言葉が当時の苦労を物語っている。(2018年3月号掲載)


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松本浩治 :  
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