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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/15)
宮崎堯さん [画像を表示]

宮崎堯さん (2024/09/08)
2018年4月号宮崎堯さん.jpg
 サンパウロ市近郊グアルーリョスのヤマの中で、50年以上にわたって竹を育ててきた日本人がいる。宮崎堯(たかし)さん(86歳、長崎県出身)は、竹の加工品や竹炭を作るなどして2001年にはその貢献が認められ、ブラジル農業界での貢献者に贈られる「山本喜誉司(きよし)賞」も受賞。26アルケール(1アルケールは約2・4ヘクタール)の土地の中には真竹(まだけ)、孟宗(もうそう)竹、淡竹(はちく)など数十種類、数十万本(推定)が植えられている。「ヤマに来て、小鳥の声を聞いたり、良質の竹が育ってきているのを見るのが唯一の楽しみですよ」と充実した日々を過ごした。
 宮崎さんは1938年、18歳の時に単身渡伯。実家は長崎県島原市の前身である杉谷(すぎたに)村で代々庄屋を営み、父親は同村長や産業組合長を務める名家だった。本家の三男として生まれた宮崎さんは封建的で窮屈な家柄に嫌気がさし、「外に出たい」とブラジル行きを決意したが、父親は猛反対。挙句の果てに勘当されたという。
 乗船した「らぷらた丸」の機関長から、「博打を打たない」「ピンガ中毒にならない」「女に手を出さない」という3つの条件が約束できれば成功すると促され、生真面目にそれを実行してきた宮崎さん。渡伯後すぐにサンパウロ州マリリアとバウルーの中間地域にあるガリエという場所で5アルケールの土地を借り、綿づくりを3年間行った。しかし、「良い綿を作っても悪い綿を作っても同じ値段では先が知れている」とサンパウロに出た。
 時局は第2次世界大戦が始まる頃。就職難の中、知り合いもいないサンパウロで「洗濯屋の小僧」(宮崎さん)として働いた。別便で渡伯していた遠い親戚からは「あなたの父親には、とても今のあなたの状況は話すことができない」と帰国を促されたが、「戦争が終ったら、ひと働きできる」と断り、ブラジルに居続けた。
 2年半の見習いの後、晴れて洗染(せんせん)業として独立。(2005年当時)連れ添って60年になるという夫人と結婚もした。
 しかし、数年後に夫人から「もっと人間らしい仕事をしてほしい」と切望され、イタペセリカ・ダ・セーラに5アルケールの土地を購入。そこに植わっていた竹林を見て、「これは、もったいない」と中学時代に剣道の竹刀などを作った経験を生かして、竹細工を行うことを思いついた。
 1965年に現在のグアルーリョスに6アルケール半の土地を買い、その20年後に20アルケールをさらに買い足した。その間、鳥篭(とりかご)をはじめとする加工品を作り始め、70年の大阪万博の時に初めて一時帰国。日本から竹を加工するための工業用機械を輸入するなど、竹に関する研究を精力的に続けた。京都をはじめ、日本各地の竹専門家と会うため、その後、4年に一度は日伯間を往復。専門知識を身に付けた。
 「はじめの頃は竹細工を作ったら、みるみるうちに売れたが、その翌年はさっぱり売れなくなる。周りにマネされて、こちらより安く売られる。新しいものを作っては売り、マネされるという生活が10年続いた」
 その後、機械を導入して簡単にマネされない簾(すだれ)などの加工品を考案。「大手資本では手を出せない中間のレベルを狙った」と戦略的な製造・販売ルートを築いた。
 85年からは竹の炭焼きにも挑み、炭窯(すみがま)をつくり、自ら焼く作業も行ってきた。
 「今はもう隠居の身ですよ」と笑いながらも、月曜日から金曜日の平日はヤマにこもる生活を継続していた宮崎さん。週末はサンパウロ市内で暮らす夫人のもとに帰っていたが、「街で2日も過ごすと、すぐにヤマに帰りたくなってね。ここ(ヤマ)にいて小鳥の声を聞いたり、良い竹が育っていくを見るのが唯一の楽しみ」と充実した表情を見せていた。
 後継者問題について宮崎さんは「この仕事を継いでもらいたいが、恐らく無理だろうな」と裸一貫で行ってきた事業に愛着を持ちながらも、言いようのない寂しさを感じているようだった。「植えて20年は、ろくな竹は育たない。これからが本当に良い竹ができるんだが」―。複雑な心境が顔に表れていた。(2018年4月号掲載、年齢は2005年12月取材当時のもの)


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松本浩治 :  
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