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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/09/15)
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草苅武さん (2024/09/15)
2018年5月号草苅武さん.jpg
 ブラジル人から「ブラーヴォ(怖い)」と恐れられ、一目置かれている日本人がパラー州ベレン近郊のサンタ・イザベルに住んでいる。草苅武(くさかり・たけし)さん(73)は、1980年代後半に防犯組織の中心的存在として、日本人・日系人を付け狙う強盗団に制裁を加えてきた経験を持つ。
 草苅さんの父親・長四郎(ちょうしろう)さん(80年、69歳で死去)は、福島県の「常磐(じょうばん)炭鉱」で10年間働いていたが、国策として戦前、北朝鮮へと渡っていた。
 35年、北朝鮮高原道(こうげんどう)の平康(へいこう)で生まれた草苅さんは、45年8月の終戦とともに家族で日本への引き揚げを余儀なくされ、父親の出身地である山形県で少年期を過ごした。
 父親には「ブラジルに行きたい」という夢があったが、当時高校を卒業していた草苅さんは、日本での勉強を続けたかった。しかし、長男でもあり構成家族を作るためにも、日本に残ることを許してはくれなかった。
 「母親は、教育については子供の頃から厳しくて、父親の言うことには絶対服従だったので、逆らうことはできなかった」と草苅さん。日本への未練を残しながらも、ブラジルに行かざるを得なかった。
 55年4月にベレンに着き、そこから約1週間かけてサンタレン近郊のベルテーラに到着。草苅さん自身は昼間はゴム園の草取りなどの仕事をし、夜は園内で設備の整ったダンスホールに遊びに行ったりもしたという。
 同年8月に強制退去のため、移住地を出ることになり、草苅家族は他の29家族と一緒にサンタレンの対岸にあるモンテ・アレグレに行くことになった。
 モンテ・アレグレの土地は幅300メートル、奥行き1000メートル。原始林を焼き、草苅家族は食べていくために、米、トウモロコシやフェジョン豆などを植え、トマト作りも行なったという。
 58年頃、移住振興会(現・JICA)の農事講習会に参加した草苅さんは、トメアスーやベレン近郊などを視察。このことが後に、現在のサンタ・イザベルに移るきっかけとなった。
 この頃から草苅さんは、情報を持つことが金につながることを体感。その後、ジュート麻(あさ)の種の卸業などで儲け、63年にサンタ・イザベルに転住した。
 サンタ・イザベルでは夜の水商売なども行なったりしていたが、75年頃に3人グループの強盗に襲われ、命を落しかけた。当時、同地では日本人ばかりを狙う強盗グループによる犯行が頻発。襲われる恐怖より、正義感が勝っていた草苅さんは、地元の警察保安局長と連携して現場にパトロールに行き、強盗グループへの制裁を加え続けた。
 周りの日本人からは「ブラジル人の仕返しがあるから無茶はするな」と助言され、表立った行動はしなかった。しかし、草苅さんは自己防衛のため、友人に日本製の防弾チョッキを購入してもらい、身体には常に3丁の銃を携帯する生活を送ってきた。
 ある時は強盗の1人を木に吊るし上げ、半殺しの目に遭わせたこともある。そうしたことから、「電話で脅迫されたことは何度もあった」という。
 87年には防犯協会が組織され、約500家族の会員が登録するまでになった。88年には、草苅さんの防犯活動の功績が認められ、地域から表彰もされている。
 記者が取材のためサンタ・イザベルのバス停で草苅さんの自宅までの道順を公衆電話で聞いた時、「タクシーの運ちゃんに『ブラーヴォ・クサカリ』と言えば、誰でも知ってるよ」と、本人から言われた。
 2003年に約50年ぶりに日本に一時帰国した草苅さんは、強い郷愁の念にかられた。特に東京の上野駅に行った時は、北朝鮮から引き揚げて来た少年時代のことを思い出し、涙したという。
 「(引き揚げたのは)ちょうど(日本の)11月頃で、寒さでガタガタ震えていた時、一人の男の人が『ほら、食えよ』と言って温かい焼きイモをくれたんだ。それが本当に嬉しくてな」
 04年頃から身体の調子を崩した草苅さんだが、再び日本に行きたいと考えている。
 「戦前の教育が俺を支えてきた」と話す一方で、「今でも大学に行きたいという気持ちはあるよ」と話す草苅さん。強面(こわもて)の表情から一転、子供のような無邪気な笑顔を見せた。(2018年5月号掲載、2008年11月取材)


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松本浩治 :  
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