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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/10/19)
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長谷川政治さん (2024/09/22)
2018年6月号長谷川政治さん.JPG
 モジ・ダス・クルーゼス(モジ)市管内クァチンガの「日の出植民地」に在住する長谷川政治(まさはる)さん(佐賀県出身、69、コチア青年1次8回)は、6人の息子たちにそれぞれ農作業を任せながらも、自らバタテイロ(ジャガイモ生産者)として生産活動を行い、1年間にモジとパラナ州を行き来する生活を続けている。
 1936年8月、佐賀県藤津郡塩田町で8人兄弟の四男として生まれた。中学卒業後に1年間、家族の手伝いとして米、麦生産などを行った後、16歳で父親の紹介により福岡県の指物(さしもの)大工の見習いとなった。
 「4年修行したら一人前の職人になる」と言われ、厳しい徒弟制度の中、技術を磨くために4年間耐え抜いた。しかし、「ケヤキ」と偽って外国産の樹木で家具を製作していたことに嫌気がさしたという。
 「嘘をつくのが性分に合わない」と、当時の就職難の時代に職人に見切りを付け、福岡県庁の門を叩いた。県庁では北海道開拓とブラジル行きを紹介され、「どうせ行くなら海外に」とブラジルへの道を選んだのが57年の初旬。同年4月2日には「あめりか丸」で神戸港を出港していた。
 スザノ管内の敷島(しきしま)植民地で同県の渕野(ふちの)さん(故人)というパトロンの世話になった。「4年間、それこそ自分の子供のように可愛がってくれた。今でも渕野さんの子供さんとは付き合いがある」と良好な関係を築いた。
 24歳で独立、パトロンの土地の近くにヤマを借り、自ら原始林を2アルケール(1アルケールは約2・4ヘクタール)あまり開いた。エンシャーダ(鍬)で土地を耕し、電気もない自給自足の生活がさらに4年続いた。
 「日本で見習い修行をしていたので、一つも苦労と思わんかったよ。家もバラコン(納屋)も全部自分で作ったし」と大工修行の経験を生かした。
 長谷川さんはその後、日の出日本人会会長などを歴任している竹本政志(まさじ)氏(2世)の父親である故・与平次(よへいじ)さんの土地を譲り受けた。その与平次さんから時子(ときこ)さん(2世)を紹介され、64年10月10日に結婚。日本では高度経済成長のきっかけとなる東京オリンピックが開催された日だった。
 「だから、ソルテ(幸運)がついたんじゃよ」と長谷川さんは嬉しそうに笑う。
 他のバタテイロがそうだったように、長谷川さん家族もあちらこちらに土地を借りては移動を繰り返した。
 「あの頃のバタテイロは『ヤマアラシ』と言われてのう。当時は2、3アルケールも土地があればメシが食えたが、今じゃ10アルケール以上無ければとてもじゃないが、やってはいけん」
 74年にはパラナ州グァラプアバの土地に目を付けた。
 「長男がまだ9歳の頃で、時子には『そんなにしてまで』と泣かれたが、『子供が大きくなった時にどうする』と(グァラプアバに)出稼ぎに行ったのよ」と長谷川さん。それから現在まで、31年間にわたって1年間の半分はパラナで生活する日々が続いている。子宝にも恵まれ、6人の子供はすべて男。長男の民男(たみお)さんは、モジ・日の出植民地でバタタ生産を行い、同地の日本人会会長も務めた。  
 次男から六男はすべてパラナに拠点を置き、それぞれにバタタ、大豆、ミーリョ(トウモロコシ)、バタタの種(セメンテ)づくりなど任されている。
 「子供たちの嫁さんに恵まれたよ。ブラジルの百姓はまだまだ良いところがある。自分の仕事が一番と思ってやらにゃあ。こんな良いところ他にはないよ」と長谷川さんはクァチンガに住んでいることを誇りに思っている。
 「今後の目標?死ぬまで百姓じゃよ」
 長谷川さんの豪快な笑い声が響いた。(2018年6月号掲載、故人、2005年取材、年齢は当時のもの)     


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松本浩治 :  
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