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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/10/19)
江口重豊さん [画像を表示]

江口重豊さん (2024/09/29)
2018年7月号江口重豊さん.jpg
 第二次世界大戦中、各地で戦闘を行い、当時「御国のために」と自らの命を顧みなかった人たちの中には終戦後に海を渡り、様々な思いでブラジルに移住した人も少なくない。
 サンパウロ州ジャカレイ市の旧街道付近に在住する江口重豊(しげとよ)さん(75、鹿児島県出身)は、1944年2月に志願して16歳で長崎県佐世保の海兵団に入団。2カ月間の基礎訓練の後、大隅半島にある鹿屋(かのや)の航空隊に入隊した。
 鹿屋での約8カ月間の飛行訓練後、江口さんら「二〇五空戦闘機隊」の隊員6人は台湾への派兵を命じられた。44年11月、沖縄を経由する航路で台湾に向けて出発。台湾南部の台南(たいなん)に着いたが、自分たちが合流するはずの部隊はすでにフィリピンへと向っていた。仕方なく台中(たいちゅう)に駐屯していた盾(たて)部隊に合流。江口さんはそこで「攻撃第四〇一飛行隊」として、人間爆弾「桜花(おうか)」での特別攻撃準備の指令を受けた。
 江口さんの説明では部隊では当時、「桜花」は俗称として「マルダイ」と呼ばれたという。マルダイは500キロの爆弾の中に人間が乗り込み、運搬用の飛行機(母機)から切り離された際にはある程度の操縦ができ、敵機に向けて突進することが義務付けられていた。
 「爆弾そのものに羽が付いていて、前方の先端部に風車状のものがあった。風によって自然と爆弾の信管が抜け、飛行機から離れると安全装置が外れるような仕組みになっていた」と江口さん。数回の擬似訓練から桜花の機能を叩き込まれ「爆弾の中に入れば絶対に逃れられないこと」を熟知していた。また、念入りに自爆用の手榴弾も手渡されていたという。
 「命が惜しいとか、そういことは自分の頭では考えもしない年齢だったんでしょうね」
 終戦2年前の43年当時、太平洋上で展開されていた日本軍の戦局は厳しく、翌44年10月のフィリピン・レイテ沖での戦いを機に、本格的な特攻作戦が展開された。しかし、若き少年兵たちの母国を愛する純粋な突撃行動とは裏腹に、敵軍に大きな打撃を与えるほどの効果は悲しくも一部を除いては、あまりなかったようだ。
 江口さんたちも出動を待ってはいたが、敗戦色が濃くなりだした当時、戦闘機をはじめ「桜花」の母機そのものの絶対数が足らず、動くに動けなかったという。「桜花」で敵軍突撃する日が1カ月前に決まっていたが、45年8月15日の終戦により、結局、人間爆弾に搭乗して出撃する機会はなかった。
 終戦後、台中の基地で俘虜(ふりょ)となり、敵軍の監視がついた。基地からの外出は禁止されたが、生活そのものは悪いものではなかった。防空壕の中には補給していたパイナップルや桃の缶詰があり、食糧にも困らなかった。半年間の俘虜生活では、終戦後2カ月ほど経った頃、地元台中の民間人から竹やりで襲われそうにもなったが、翌46年のはじめには駆逐艦に乗り、鹿児島の土を踏むことができた。
 実家に無事戻った際、畑仕事をしていた母親の驚きようは、江口さんがかつて見たことがないほどのものだった。16歳で志願して航空隊に入隊した時、母親は涙一つ見せずに堂々と見送ってくれたからだ。
 「兄が軍属として満州に行っていたこともあり、その時、母親はもう覚悟を決めていたんだろうね」と江口さん。家族の大切さを改めて悟った。
 その頃、父親は戦前移民としてブラジルに滞在していた。江口さん自身も元々は戦前移民として家族・兄弟とともに連れられ、5歳から7歳までの幼年期をサンパウロ州バストスなどで過ごした。綿の豊作で比較的経済的に余裕のあった江口さんの父親は子供たちの教育問題を懸念し、母親と三男の兄、四男の江口さんを日本に返していた。
 幼年期のブラジルでの記憶はほとんどないという江口さんだが、復員後間もなく楽器のギターに興味を持ち、47年に日本に帰国した父親を迎えるために鹿児島から横浜港まで出向いた。父親の手には江口さんが事前に連絡、希望していた念願のブラジル製ギターがあった。ブラジルで父親と別れて実に10年以上の月日が流れていた。
 「九州で一番上手いという人にギターを習い、『流し』もやったことがある」と江口さんは、今でもギターの弦を嬉しそうにつまびく。
 終戦後の日本で建設会社や鉄鋼会社に勤務した経験のある江口さんは、三男の兄に誘われて母親たちと一緒に58年、ブラジルに再渡航した。サンパウロ州サンタ・イザベルなどでトマトやスイカなどの生産を行なった後、80年代後半からは数回にわたって日本に出稼ぎに行くなど、現在の日本も見聞きしてきた。
 今はジャカレイ市で趣味の釣り、山歩きや時々はカラオケの伴奏としてギターを弾くという生活を過ごしている江口さん。戦争時代の記憶は今も脳裏に深く刻まれている。(2018年7月号掲載、故人、2003年8月取材、年齢は当時のもの)


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松本浩治 :  
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