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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/10/19)
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吉田官六さん (2024/10/06)
2018年8月号吉田官六さん.jpg
 日本の特攻隊の中でも、木製の小型艇に爆弾を積み込み、敵艦隊に突撃するという「震洋(しんよう)特別攻撃隊」がある。同攻撃隊の一員として、海南島で米軍攻撃の機会をうかがいながらも出撃命令が出ず、その思いを果たせなかった経験を持つ吉田官六(かんろく)さん(76、福島県伊達郡出身)。
 1943年10月、旧制中学4年生(16歳)だった吉田さんは、海軍飛行予科練習生(予科練)に志願して入隊。甲13期生として、三重海軍航空隊の奈良分遣隊に派遣され、数十人に一人の採用というエリート集団の狭き門を突破した。
 その年の2月、南太平洋のガダルカナル島からは日本軍が撤退。同5月にはアッツ島の日本軍が全滅、玉砕するなど戦局は逼迫(ひっぱく)した状況を迎えていた。
 「今でも思い出すのは『このまま行けば、日本は負ける』と子供ながらに感じていた」という吉田さんは、少年航空兵としての生き方を自ら選んだ。
 同分遣隊では当時、海軍が買い上げたとされる奈良県天理市にあった天理教の施設を使用。海軍航空兵の基礎訓練として体操、水泳をはじめ、柔道、剣道、銃剣術、短艇漕ぎ、通信技術のほか、グライダー飛行など「成兵」となるための徹底的な教育が行われた。
 その頃、太平洋で繰り広げられていた戦いで日本軍はしだいに追い詰められる形となり、戦闘航空機そのものが激減、戦地に赴くどころの話ではなかったという。
 当時、甲13期生だけで2万人、奈良分遣隊には1万人の隊員が訓練を行なっていた。ある日、窓に暗幕がかけられた体育館に各分隊ごとに集められた。丸秘事項として「帝国海軍が新兵器を造った」との訓示を受けた後、特攻隊として希望する者は、配布された紙に名前と三重丸を書くことを促された。
 この特攻作戦を志願した隊員たちの中には、熱望するあまり自分の指を噛み切り、血書で提出する人も少なくなかったという。当時、分隊長の世話役を務めていた吉田さんは分隊長室に入る機会が多く、志願者の名簿の中に血書が多数あったことを確認している。
 結局、2万人の中から500人が特別攻撃隊として選ばれた。吉田さん自身も志願したが、合格できなかった。特攻隊に選ばれなかった隊員たちは「自分たちも戦地に行かせてほしい」と夜な夜な分隊長室に赴き直訴。その訴えは1週間にもわたったという。
 当時、約1年間の予科訓練を終えて卒業、本科練習生へと進んでいた吉田さんは、44年12月に実施された特攻隊の二次募集に合格し、長崎県大村湾にある小さな漁港「小串(おぐし)」にある臨時魚雷艇訓練所へと派遣された。
 そこで初めて新兵器と言われていた「震洋艇」と対面したが、「これを見た時は本当にがっかりした」と吉田さんは正直な気持ちを話す。同艇はベニヤ板を張り合わせた合板でできており、航空機で特攻すると信じて疑わなかった隊員たちにとっては大きなショックだった。日本軍の戦局の危うさを、若き戦闘隊員たちも肌で感じたようだ。
 震洋艇は敵艦200メートル手前で舵を固定し、隊員は爆発前に水中に飛び降りることが可能だと理屈的には言われていたが、「いざ戦場になると、とてもそんなことはできない。助からないのは必至」というのが戦闘隊員たちの一致した気持ちだった。
 小串に来て以来、毎晩のように震洋艇による突撃訓練を行なっていた吉田さんたちは、特別攻撃隊の一員として海南島への派遣命令を受けた。一個艇隊に12人ほど、4つの艇隊に約50人が福岡県の小倉港から出陣。吉田さんは第四艇隊に所属していた。
 輸送船3隻、航空母艦3隻から成る船団は、敵軍潜水艦からの魚雷を避けるために朝鮮半島を接岸航行。常に浅い場所を探しては測量兵が銛(もり)を投げて水深を測るなど、慎重を重ねて進行していった。が、遼東半島の旅順から黄海をまっすぐに横断している時、突然魚雷攻撃を受けた。夜中のことだった。魚雷が自軍船底をかすり、その振動で飛び起きた。「本艦はやられた」との声に船内はパニック状態に陥ったが、難を逃れた。吉田さんが後から聞いた話では、船団に15本の魚雷攻撃があったという。
 45年2月にようやくの思いで海南島に到着した吉田さんたちは、同島にある日本軍の基地内で出撃命令を待った。
 「アメリカ軍が来れば自分たちが先陣切って戦わなければならないという思いで、毎日、いつ死ぬか分からないという覚悟を決めていた」と吉田さん。言葉には出さないが、死を待つという当時の気持ちは精神的にかなり追いつめられたものがあったに違いない。
 実際、44年4月の沖縄戦が始まる前には、実戦への待機命令が出され緊張は一気に高まったこともあった。
 結局、出撃命令が出ることはなく、海南島基地内で終戦を迎えた。「重大な決意のもとに第一線に行ったが、米軍侵攻の矢面に立てず、戦果を果たすことができなかった」という吉田さんは、当時の無念の思いから「本来ならこういう話は、表立ってしたくはなかった」としみじみ語る。一方で、これまで自分の心の中にだけに閉じ込めてきた戦争体験を「もう少し次世代に伝える必要があったのかもしれない」とも話していた。
 54年3月、戦後10年が経たない頃に知人の影響を受け、渡伯。「せっかく戦争から帰ってきたのに、なぜブラジルに行くのか」と日本に残った母親には泣きつかれたという。
 実家がリンゴ農園だったこともあり農業は苦ではなく、ブラジルに来てからも花卉(かき)・果樹生産を行い、現在では畜産も手がけている。
 現代の日本について吉田さんは、「戦後、得たものも多いだろうが、帰属意識や国家意識など失ったものも多いと思う」と語る。「経済大国にはなったが、アメリカに押し付けられた今の教育で果たしてこの先どうなるのか」と日本の将来を憂う毎日が続く。
 戦争当時の自分たちの決死の思いとはあまりにもかけ離れた現代日本への反発感が、吉田さんの心を今も支配している。(2018年8月号掲載、故人、2003年8月取材、年齢は当時のもの)


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松本浩治 :  
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