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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/10/19)
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中島弘人さん (2024/10/14)
2018年9月号中島弘人さん1.JPG
 アマゾン地域のサンタレン市近郊にはかつて、米国の大手自動車メーカー「フォード」が作ったゴム園があった。「フォードランジア」と「ベルテーラ」の両農園には、1950年代半ばに日本人が「ゴム移民」として入植。設備が整い、画一化された広大な土地でゴムを生産管理していた。しかし、ブラジルの労働者保護などを理由に日本移民が強制的に退去させられた経緯がある。その中でも、数少ないフォードランジアに入植した経験を持つのが中島弘人(ひろひと)さん(80)だ。
 中島さんは戦時中、米軍による空襲で福岡県大牟田(おおむた)の自宅を焼かれ、戦後は炭鉱があった同地の社宅などに青果物を販売するなどしていたが、50年代に入ると不景気で閉山が相次ぎ、「商売にならない」状況だったという。
 ある日、新聞広告でフォードランジアへの5家族の募集が掲載されているのを見て、ブラジル行きを決意した。妻と実弟、幼い子供2人の計5人で構成家族を作り、54年10月25日に神戸港を出航。約50日かけてフォードランジアに到着した。
 フォードランジアでは「谷さん」という日本人が農業部長として指導を行い、「日本人は手が器用だから」とゴム切りの仕方を懇切丁寧に教えてくれた。フォードランジアは当時、整った移住地だった。家は板張りで高床式になっていて涼しく、部屋は二間あり、炊事場も備え付けられていた。川沿いには商店もあり、生活品を揃えることもできたという。
 中島さんは1カ月の練習期間の後、実際にゴムを採取。ゴムの木を一日に一人300本割り当てられ、樹木に傷を入れて液をバケツに採り、天秤棒で担いで工場に運んだ。キロ数とゴムの濃度によって値段が決まり、濃度が濃いほど値段が高いため、雨季よりも乾季の方が割りが良かったという。
 仕事にも慣れ、「このまま行けば何とかいける」と思っていた頃、突然、強制退去の通知を受けた。福岡県から一緒に来た2家族は、つてを頼ってサンパウロに行くことに。しかし、知人もない中島さんは農業指導者の谷さんに相談したところ、アクレ州のリオ・ブランコを勧められた。同地にはベルテーラからの15家族も加わり、フォードランジアからは中島さんを含めた2家族の計17家族が一緒に行くことになった。
 しかし、サンタレンに向かった船は途中の大嵐により、船を途中の岸に着けざるを得ず、到着時間が大幅に遅れたため、サンタレンからリオ・ブランコに一緒に行くはずだったベルテーラ移民たちは既に出発していた。中島さんら2家族は仕方なく、次の船が来るまで10日ほど待っていたが、目的の船はなかなか来なかった。その際、ベレンから仕事で来ていた日本人からリオ・ブランコについて話を聞くと、「あんな所、乾季には土地が干上がり、行くもんじゃない」と説得され、中島さん家族は結局、ベレンへと出ることになった。
 ベレンから約10キロ離れたマリツーバという場所にブラジル航空隊の兵舎があり、兵士の食糧用に見よう見真似で葉野菜作りを始めた。妻は同所でブラジルでは第一子となる3番目の子供を出産したが、母体は助からず、中島さんは大切な伴侶を失った。56年4月頃のことだった。
 「当時は本当に参りましたね。子供らが夜になると泣きだすんですよ。何日、一緒に泣いたか分かりません」
 その時に助けてくれたのが、細田(ほそだ)さんという日本人だった。「まだ、あなたは若いんだし、子供たちも居るんだから仕事をしなくてはいけない」と励まされ、「今のままでは将来性が無い」とタパナンの土地を貸してくれた。同地では当時、約20家族の日本人が住み、キャベツなどの野菜を作り、ベレンに出荷。中島さんも仲間に加わった。しかし、生産者一人一人が市場に持っていくのはコストも労働力も大変なため、協同出荷組合を組織。戦前移民の有力者が4トントラックを購入したことで、毎日ベレンに新鮮な野菜を運ぶことができるようになった。
 その頃は、作れば作るほど生産物は売れ、頼母子(たのもし)などをしながら互いに経済力を付け、中島さんの生活も落ち着きだした。
 タパナンに6年居た後、ベレン近郊のアナニンデウアに待望の土地を購入して独立。多い時で15~16人の労働者を使い、大きく野菜作りを始めた。70年代には子供たちも成長し、生活も安定。日本でやっていたようなキタンダ(八百屋)も営業し、75年頃には養鶏なども行なった。その間、中島さんはアナニンデウアの日伯協会の活動にも参加し、特に野球などのスポーツを通じて、青少年教育に力を注いだ。野球場を造り、青少年野球チームや女子ソフトボールチームの監督も務めた。
 「生活にようやく余裕が出来た頃で、野球は唯一の楽しみだったね」
 90年代半ばからは、アナニンデウアに不法侵入者が多くなってきたことなどをきっかけに、ベレンの街へと出てきて、八百屋の仕事を子供たちに任せた。
 2007年9月には、フォードランジアを出てから約50年ぶりに同地を訪問した中島さん。現場には、当時のゴム用の大型機械がそのまま残され、感慨にふけったという。(2018年9月号掲載、故人、2008年11月取材、年齢は当時のもの)


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松本浩治 :  
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