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マツモトコージ苑
     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/10/19)
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七種忠利さん (2024/10/19)
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 リオ州ピア・ベッタに在住する七種忠利(さえくさ・ただとし)さん(75、長崎県出身)は、コチア青年1次3回生として1956年に渡伯し、地道な生産活動と巨大ピーマン作りなど品種改良と育種研究が認められ、90年には農業貢献者に贈られる「山本喜誉司(きよし)賞」も受賞している。
 青年時代は単独で満州に渡り、「満州製鉄」の学校に通っていた経験も持つ。2005年5月には脳溢血で倒れ、当初は話すのにも苦労したというが、現在は少しずつ回復しつつあり、家族に畑を任せながらも農業生産者としての気持ちを持ち続けている。
 七種さんは、半農半漁家庭の四男として長崎県平戸で生まれ、兄たちが満州製鉄や満州開拓義勇軍に携わっていたことから、自身も15歳の時に単独で満州へと向かった。満州製鉄の工作科で1000人の同期性とともに勉学に励んでいたが、終戦と同時に同製鉄所は解体。戦後の混乱で1年間は同地の満州人のもとで農業生産などに従事したが、1946年8月に何とか帰国することができたという。
 帰郷後は漁船の機関長などを務めて鰯(いわし)漁などを行っていたが、「満州で見た、まっ平らな大地が忘れられなかった」として、当時募集していたコチア青年制度で再び海を渡った。
 同期のコチア青年は124人。そのうちリオに配耕になったのは、わずかに2人だけ。七種さんは、標高1100メートルあるノーバ・フライブルグの喜多見(きたみ)さん(北海道出身、故人)という戦前のアマゾン移民副監督だったパトロンのもとに配耕された。
 当初、想像していた平らな大地とはまったく違う高冷地でトマト生産を行うことになった七種さん。「その頃は、1箱のトマトが1俵の米と値段が同じくらいだったが、1か月の給料は1箱のトマトよりも低かった」と当時を振り返る。
 入植した半年後、喜多見さんが事故で急死し、パトロンの遺族からは同地で農業を続けるか、サンパウロなどに出るかの選択を迫られたという。「ブラジルに来て半年ならどこに行っても同じ。それなら、ここで農業を続ける」と心に決めた七種さんは、同地で6年間トマト生産を行い、並行して柿などの果樹も植えた。
 その後、「10年も同じ場所に留まっていたら土地を没収される」との噂を伝え聞いた七種さんは、62年に現在のピア・ベッタに移転した。
 移転当初もトマト栽培を続けたが、その後はピーマン生産に力を注いだ。ある時、人から依頼されて「マルガレッテ種」のピーマンを畑の隅に180本ほど植えていたが、収穫時期にウイルスにやられて2、3本しか残らなかった。わずかになった実は、今まで見たこともない硬いピーマンができた。それを「カンガセイロ種」と交配させて作ったものから、一つの実で500グラムもある巨大なピーマン(カンガレッテ種)が出来上がったという。80年代後半には市場に出回り、「セアザで売るのに何の苦労もなかった」(七種さん)というほど、反響があった。「おばけピメントン(ピーマン)」と新聞紙上でも紹介され、90年には「山本喜代誉司賞」も受賞した。
 しかし、2005年5月には脳溢血で倒れ、当初は話もろくにできない状況に陥った。現在、農作業は夫人の幸子(さちこ)さん(65、長崎県出身)と娘のまゆみさん(41、2世)たち家族に任せているが、約1年間のリハビリの成果で身体も少しずつ元の状態に戻りつつある。
 「今後、ぼちぼちと時間と身体が許せば、また百姓を続けたい」と意気込みを見せる七種さん。ブラジルに来て、一貫して続けてきた生産者魂が自身を支えている。(2018年10月号掲載、故人、2006年4月取材、年齢は当時のもの)


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松本浩治 :  
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