芹川浜子さん (2024/10/27)
2008年のブラジル日本移民100周年記念行事として日本庭園造園、新会館増設などの記念プロジェクトを進めてきたミナス・ジェライス州の州都ベロ・オリゾンテ市にあるミナス日伯文化協会。同文協の会員数は、約130家族(2007年当時)と多くはないものの、結束力は固い。ベロ・オリゾンテ市はサンパウロ市以上に急な坂道も多く、街中であっても未だ石畳が敷き詰められた場所も少なくない。同文協も高台にあり、立派な会館が建っている。 その会館で毎年1月に開催される同文協主催の新年祝賀会に、同地域の高齢者の一人として参加していた芹川(せりかわ)浜子さん(87、熊本県出身)。杖をつきながらの出席ではあったが、祝賀会の余興で行われたビンゴ大会では、子や孫たち家族とともに楽しみ、元気な笑顔を見せていた。 浜子さんの夫である故・芹川教(つかさ)さんは同じ熊本県出身で、18歳の時から満州に渡り、軍生活を行っていた。浜子さんと婚約してからも満州での単身生活が長引き、第2次世界大戦が始まった頃には電報も届かず、浜子さんも気が気でなかったという。 戦後、晴れて結婚して子宝にも恵まれたが、1950年代初頭に浜子さんの母親の叔父がブラジルから数十年ぶりに帰郷したことが、芹川夫妻の人生を変えた。 浜子さんの大叔父は当時、サンパウロ州ツッパンから程近いリノーポリスで瓦(かわら)製造工場を持っていたほか、薬局も開業していたという。終戦後の日本での苦しい生活を強いられた教さんにとって、ブラジルの話は魅力的で別世界だったようだ。その頃、芹川夫妻には6歳の長女を筆頭に、4歳の長男、生まれて間もない次女の3人の子供がいたが、ブラジルに行くことを決意した。 「ブラジルに着いた時は一番暑い時期で、娘は気候に合わずに髪の毛が抜けたりして、日本に帰りたいと思ったこともしょっちゅうでした」と浜子さんは、気候風土の異なる場所での生活に困惑していた。しかし、教さんは軍隊時代が長かったこともあり、厳しい人格で、自分の考えを貫く姿勢を崩さなかった。 芹川さん家族は大叔父を頼り、渡伯して約2年間をリノーポリスで過ごした。教さんはその間、同地の日本語学校で教師なども行っていたという。その後、ベロ・オリゾンテ市から約50キロ離れたマテウス・レミという場所に移転し、野菜作りを始めた。芹川夫妻は熊本県でも農業生産をやっていたこともあり、同地で17年間「百姓」としての暮らしが続いた。 さらに、70年代後半にマテウス・レミから約40キロ入ったジビノーポリスに移転。花卉(かき)生産を主体にした生産活動に転換し、浜子さんは現在も同地に住んでいる。 夫の教さんは、80年代後半に68歳で亡くなったが、ミナス日伯文化協会の役員も務めた経験があり、文協会館の壁には胸に勲章を付けた教さんの遺影が、歴代会長たちの写真とともに飾られている。 「何も病気は無いんだけど、最近、骨が弱くなってね」と苦笑する浜子さんだが、現在は7人の子供の孫たちにも恵まれ、「ばっちゃん、ばっちゃん」と慕われている。 「私はポルトガル語もよう分からんけど、子供やジェンホ(娘婿)たちが良く面倒をみてくれるので助かっています」と浜子さんは、家族への感謝の意を示していた。(2018年11月号掲載、故人、2007年2月取材、年齢は当時のもの) 【追記】 ミナス日伯文化協会会館は1999年3月、講堂の開設に着工し、ウジミナス製鉄所の支援によって2008年5月に完成している。
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