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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/11/16)
松本尉左於さん [画像を表示]

松本尉左於さん (2024/11/02)
2018年12月号松本尉左於さん.JPG
 コチア青年を受け入れた元パトロンたちも高齢化が進み、数少なくなる中、そのうちの一人、松本尉左於(いさお)さん(高知県出身、80)に当時の話を聞くことができた。
 松本さんはコチア青年たちと同じように、自らもカマラーダ(人夫)の経験がある。1929年、「らぷらた丸」で渡伯した当時は、まだ4歳の幼児だった。両親、祖母、兄と5人で海を渡り、家族はコチア市に入植した。
 当時のコチア産業組合の中でもバタテイロ(ジャガイモ生産者)として一番の売上を誇っていたサント・アマーロの片山農場に、2年契約のカマラーダで入った松本さん。「その頃は、昼もなく夜もなく働きよった。今ならボンバ(ポンプ)で水を引き揚げるけど、昔は谷底から天秤棒で水を運んだことが特に身にしみた。今も元気なのは、その頃に鍛えられたからよ」―。
 契約の2年間を終えた松本さんは独立した後もバタタ生産を続け、49年、25歳になった時に現在のサンパウロ市南部カーザ・グランデに移転。同年、同じ高知県出身でジャグァレーに住んでいた栖末子(すまこ)さんと結婚した。「高知県人は『血統』を大事にし、その頃は『高知県以外の人間とは結婚させん』と言われていました。ガイジンと結婚する現代では考えられんことでしょうけど」と栖末子さんは笑いながら語る。
 土地は当時のバタテイロの誰もがそうだったように、借地を転々と変えた。バタテイロの暮らしは、80年くらいまで全盛を極めた。「週に4、5回は料亭でドンチャン騒ぎ。カミヨンでバタタを出荷して、洋服の着替えを持って料亭に行っていたよ」と松本さんは、豪快な時代を懐かしく振り返る。家の前には日本庭園が造成されている。基礎となる岩石はバタテイロ時代にマイリンケからカミヨンで10数台分が運ばれたという、今でも自慢の庭園だ。
 コチア青年を受け入れたのは、57年。諸事情で他のパトロンのもとを1年足らずで離れた樋口香(ひぐち・かおる)さん(新潟県出身、69)を快く受け入れた。樋口さんは4年間、松本さんのところで契約を果たして独立。現在はCEAGESP(サンパウロ州食糧配給センター)でバタタを扱っている。
 「まあ、本当に良くやってくれたよ」と松本さんは、樋口さんの契約時代の仕事ぶりを褒めちぎる。現在は松本さんの後継ぎとして葉野菜などを生産している松本さんの長男・尅季(かつき)さん(52、2世)と大学卒業後自らの診療所を持つ次男の尉左武(いさむ)さん(50、2世)が幼少の頃、兄のように慕っていたという。
 「樋口が独立してこの家を出る時に、息子たちが『何故、兄ちゃんを追い出すのか』と言って反対されてね。青年時代には行かさなかったけど、明日から独立という時には一緒に『青柳』(料亭)に連れていったよ」と松本さんは、樋口さんの独立を自分のことのように喜んだ。
 「自分がカマラーダの経験をしたからね。その苦労は良く分かっとった」     
 80年代以降、それまでのバタタ生産から松本さんはキャベツなどの葉野菜生産に変換。直売も手がけ一時は盛況だったというが、大手スーパーの進出により、現在の売上は激減しているという。
 「呑むのが何よりの楽しみよ」と笑う松本さん。時代の流れを感じつつも長男に引き継いだ生産活動を見守りながら、今でも早朝からキタンダ(八百屋)に品物を卸す毎日が続いている。(2018年12月号掲載、故人、2005年10月取材。年齢は当時のもの)    


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