川上心男さん (2024/11/09)
サンパウロ州イビウーナ市のセントロから南西に約10キロ。コチア青年の元パトロンだった川上心男(かわかみ・むねお)さん(高知県出身、81)が同地に在住している。 心男さんは1930年2月頃、「かまくら丸」でサントス港に到着。当時5歳だった。両親と父親の従兄弟、弟2人という家族構成で日本から海を渡ってきた。川上さん家族は、モジアナ線オランジア駅から入った場所でイタリア人と一緒にコロノ(契約移民)生活を強いられた。 2年の契約農を終えて、コチア産業組合創設者の故・下元健吉氏の兄・良太郎(りょうたろう)氏の世話により、カウカイアの入口付近で借地農として2年働き、36年に現在のイビウーナの土地を購入。38年に引っ越し、バタタ(ジャガイモ)生産に励んだ。 39年にモイニョ・ベーリョの小学校を卒業した心男さんは、戦時色の濃くなりだした翌40年1月、兄弟3人と一緒に日本に帰国している。「日本は神の国。ぜひ、行ってみたい」と普段、父親から聞かされていた祖国ニッポンの土を改めて踏んだのが15歳だった。 弟たちが旧制中学校の幹部候補生、志願兵として戦地に赴く中、心男さんは帰国1年目にして肺病を患い、徴兵検査で不合格となった。「肺病が私の命を救ってくれたのかもしれません」と心男さんは、現在になってそう感じるという。 50年、戦時中は音信不通だった両親からの手紙が届き、再びブラジルへと戻った。コチア産業組合員だった父親が戦前から続けていたバタタ生産を引き継ぎ、イビウーナをはじめ、ピラール・ド・スールなど全盛時で1000アルケール(約2400ヘクタール)以上の借地を使用していたという。 夫人の千枝子(ちえこ)さん(78、2世)とは55年、30歳の時に結婚した。 川上さん家族がコチア青年の若者たちを受け入れ始めたのは、59年頃。「今でも付き合いのある者もいれば、来て3日も経たずに出ていった者もいる。その頃は、コチア青年だけでなく、多くの若い青年たちと一緒に寝食を共にしていたので、何人いたかは忘れたよ」と心男さんは、活気のあった当時を振り返る。 「皆、よく働いたね。誰に対しても特別扱いはせず、同じ釜のメシを食べた仲間として一つの家族のようでした」 「食事は一度きに20人以上の人たちが食べるので、毎日大変でした」と夫人の千枝子さん。家の中の食堂として使用していた場所は現在、ミシンが置かれるなど作業場となっている。当時の面影はなく、茶ダンスには今はあまり使用されることがなくなったという数多くの食器類が置かれていた。 心男さんの父親は62年頃、フォス・ド・イグアスー周辺地域を飛行機で視察した際、パラナ州グァラプアバの土地に引きつけられたという。その後、父親と心男さんがグァラプアバの土地を軌道に乗せ、一緒に連れて行ったコチア青年に後を任せ、独立させた。 コチア青年を含めた当時の若者について心男さんは「木の葉に溜まった露のようなもの。落ちた場所によって全然違う人生を皆、歩んできた」と語る。 「コチア青年を受け入れたものの、人を世話する施設が当時のコチア組合にはなかった。パトロンが昼から酒をあおって仕事をせず、逃げてきた青年もいたが、気の毒で見られなかったね。青年がパトロンの娘を孕(はら)ませて、父親がその状況を受け入れず、娘さんが自殺したという話もありましたよ」と心男さん。それぞれの人生を歩んだ青年たちへの思いを今も持ち続けている。(2019年1月号掲載。故人、2005年10月取材。年齢は当時のもの)
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