筒井律子さん (2024/11/16)
「私と同じような立場にあった方々も、どうか元気で頑張ってほしい」―。こう語るのは、サンパウロ市サント・アマーロ区在住の筒井律子(つつい・りつこ)さん(80)。1995年1月17日に兵庫県南部で発生した阪神・淡路大震災で被災し、崩れ落ちてきた家屋の下敷きとなり約12時間後に奇跡的に救出され、一命を取りとめた経験を持っている。2005年1月17日にサンパウロ市内のサンフランシスコ教会で開かれた同震災後10年の犠牲者追悼ミサに出席した筒井さんは、当時の惨事を改めて振り返り、亡くなった人々への祈りを捧げた。 北海道で生まれた筒井さんは、5歳の時に渡伯。ブラジルで生活していたが、1991年に出稼ぎとして日本を訪問し、65年ぶりに祖国の地を踏みしめた。 兵庫県芦屋市で自動車部品会社社長の母親の面倒をみていた筒井さんは震災当日の95年1月17日、前日に「(17日は)牡丹(ぼたん)雪が降る」と知らされ、ブラジルでは珍しい雪を見るため、早朝に起きだしていた。雪の写真を撮っていた時、急に生温かい空気が周辺を包んだという。気持ちが悪いので、家の中に入りラジオを聞いていた時、唸り声にも似た地響きがしたかと思うと、「ドーン」という爆音が轟(とどろ)いた。 1回目の横揺れで足をすくわれて転倒した筒井さんは慌てて外に飛び出そうとしたが、2回目の波状の揺れのため、家の中に留まらざるを得なかった。引き続いて発生した3回目の縦揺れで頭を天井に叩きつけられ、頭から血が流れるのが分かった。天井からコンクリートが落ちてきて、身体は家屋の下敷きに。意識はしっかりしていたが、入歯が割れて口を大きく切っていた。 その間にも余震が次々と発生。「漬け物の重しのように身体をジワジワと押し付け、痺(しび)れた状態になっていました」と筒井さん。動けないままの状態で数時間経った頃、近くで人の話し声が聞こえ、「助けてー」と声を振り絞って叫んだ。筒井さんの存在に気付いたが、その人々は掘り起こす道具を持ち合わせていない。「俺たちは鍬もなければノコギリも持っていない。すぐに助けるから死ぬなよー」と言い残して、その場を立ち去った。何時間かが経った後、「カッタン、コットン」と音がして、ようやく救出された時には、震災発生後からすでに12時間が経過していたという。 救出された時、長時間家屋の下敷きになっていた痺れからか、「寒さも痛みもなく、ただ意識だけがしっかりしていた」という。敷布を被せられ近くの病院に運ばれたが、病院内は被災者たちで溢れ、中に入ることはできない。病院前の道路に寝かされた。 医師が来て「頑張れよ」との声を掛けられ、早速治療となったが、傍らでは看護婦が泣きながら「麻酔がない」と訴えている。被災者があまりにも多いために、病院でも対応できなくなっていた。仕方なく医師は、麻酔なしで筒井さんの傷口を縫合。36針も縫う大怪我だった。 重体の筒井さんは震災発生の翌18日、そこからさらに救急車で芦屋の病院に運ばれた。医師の眼鏡に反射する自分の腫れ上がった口元を見た時、顔の倍以上にも膨れ上がっていることに初めて気付いたという。 結局、筒井さんは1年半にわたり同病院での入院生活を余儀なくされ、96年9月にようやくブラジルに戻ることができた。 2005年1月17日に行われた震災後10年の犠牲者追悼ミサに、杖をつき震災で痛めた足を引きずりながらも孫に連れられて出席した筒井さんは、当時の出来事を改めて思い出した。「私自身、今も不自由な身体ですが、今後もできるだけ人の助けを借りずに生活したい」と前向きな姿勢を示した上で、「(震災で)私のような立場になった人も多いと思いますが、どうか頑張って生きてほしい」と犠牲者の冥福を祈った。(2019年2月号掲載。2005年1月取材、年齢は当時のもの)
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