本田利秋さん (2024/11/24)
パラー州のグァマ移住地に第4次米作移民として1957年6月に入植した本田利秋(ほんだ・としあき)さん(74、熊本県出身)は、その後にベレン市内北東部のタパナン区に住み、長年にわたって汎アマゾニア日伯協会役員や地元の野球連盟の普及にも携わった。 夫人の貴美子(きみこ)さん(72)とは、父親が従兄弟同士。貴美子さんの提案で熊本県の海外協会連合会(海協連)を通じてブラジル行きの話が出され、「それなら、行こう」と構成家族として、本田さんは貴美子さんのもとに婿入りする形となった。 本田さん家族を乗せた「ぶらじる丸」は、57年5月3日に横浜港を出港。ベレンにはちょうど1か月後に到着した。さらに小型船に乗り換えて約2時間ほどかけてグァマ川を遡行(そこう)して上陸した土地は、日本で聞いていた話とは大きくかけ離れていた。 「まず、宿舎に屋根がない。着いてすぐに屋根葺(ふ)きから始めた」。3日後には川に沿って道をつくる共同作業が開始され、2か月後にようやく、くじ引きによる区画割り(幅200メートル、奥行き1500メートル)が行われた。しかし、手違いにより、本田さん家族の区画だけがなかった。仕方なしに次の第5次移民が入植する同年10月頃まで待ち、上陸地点にあった合宿所から同県人の各区画に通いながら、家づくりの手伝いを行うしかなかったという。 第5次移民と一緒にようやく自分の土地を手に入れたが、生活は「水」の苦労から始まった。前日、壺に水を満たしておき、翌日には泥が沈殿した後の上澄みを生活用水に使う。川から10メートル離れた場所に家を建てたが、「夜中に水が上がってきて、朝起きたら遠くの方に下駄が流されていたこともしょっちゅうだった」とも。 本田さんは翌58年の正月早々、夫婦ともどもマラリアに罹患。「毎日、午後3時か4時くらいになると必ず激しい震えがくる。熱が40度くらいあるのに寒くて仕方がない。日本から持ってきた大きなヤカンに湯を入れて毛布をまいて包(くる)まっていたよ」と当時を振り返る。 移住地を出るきかっけになったのは、産まれてくるはずの子供が流産したこと。貴美子さんが妊娠し、陣痛が始まってから52時間の難産だった。近所の婦人たちや移住地に定期的に来ていたブラジル人看護師に協力を求めたが、「ベレンの病院でないと無理」と言われた。当時はベレンまでの道がないので船を待ったが、その船がなかなか来ない。ようやくの思いでベレンのサンタ・カーザ病院に運ばれた時には、すでに子供は母体の中で窒息死していた。 「こんな所には、おれん」―。58年9月、本田さんは移住地を出て、ベレン市内のタパナン区へと移った。その3か月前には、神戸移住あっせん所で一緒だった同船者2人の脱耕の世話をしていたという本田さん。タパナンに仮住まいを持っていた2人を頼り、同じ熊本県出身の1家族とともに夜中3時頃、夜逃げ同然の形で移住地を後にした。タパナンに落ち着いて1週間後、ベレンの海協連事務所を訪れ、グァマ移住地から脱耕したことを伝えた。 「(脱耕したことに)文句があるんなら、今ここで言え」と本田さんは、子供を亡くした怒りを海協連職員にぶつけたが、誰一人として何も言う者はいなかった。 同年、日本政府の移住地調査団が現地入りし、グァマ移住地を米作不適地だと認めた。その結果を出す発表会に出席していた本田さんが、その場で調査団に注文を出したのは「学者としての意見を正直に出してほしい」というものだった。同発表会には領事館など日本政府関係者が出席していたこともあり、調査団に不当な圧力がかけられることも考えられる。それを防ぐのが目的だった。「ただ誤解してほしくないのは、グァマの土地そのものは素直だった。肥やしを蒔けば、作物はできた」と本田さんは、アマゾンの土地の豊かさは評価している。 その後、ベレン市のベル・オ・ペーゾ市場で主にキャベツなどの野菜を販売して生計をたてた。特にその頃の野菜は貴重品で、高値で売れた。また、養鶏も行ない、「卵1個でコーラ2本が買えたほど値段も良かった」という。 本田さんは、午前は本業、午後からは時間的な余裕があったため、汎アマゾニア日伯協会や野球連盟活動に携わり、30年以上も世話役を務めた。60年代前後にはサンパウロから日本映画のフィルムを取り寄せ、娯楽の少ない日本移民のために当時の日本人会で映画を上映したことも何回となくあった。 「今から思えば、(渡伯は)単に自分の生活の場所を変えただけ」。本田さんが語る表情の中に、人生の機微を感じた。(2019年3月号掲載。故人、2004年9月取材。年齢は当時のもの)
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