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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/12/21)
加藤昌子さん [画像を表示]

加藤昌子さん (2024/11/30)
2019年4月号加藤昌子さん.jpg
 1929年に第1回アマゾン日本人移民43家族189人(うち、単身9人)がアカラー移住地(現:パラー州トメアスー)に入植し、2019年で90周年の節目の年を迎えた。アマゾン移民たちは気候風土の違う灼熱の「緑の地獄」の中でマラリアなどの被害に遭いながらも、「黒ダイヤ」ともてはやされたピメンタ(コショウ)景気に沸くなど、数々の試練と喜びの中で信頼ある日本人・日系人の地位を築き上げてきた。
 2009年当時、トメアスーのクワトロ・ボッカス(十字路)から8キロほど離れた場所に、独りで住んでいた加藤昌子さん(79、秋田県出身)。父親の木村総一郎(そういちろう)さん(故人)は、トメアスー農業組合創設者の一人。「木村天皇」と言われたほど厳しい性格の持ち主で、時間にも非常に厳しかったという。組合には一番に顔を出し、職員が5分でも遅れようものなら「今日はお前の仕事は無いから、帰れ」などと言い、ふしだらな組合員を除名にしたエピソードもあったそうだ。
 また、トメアスーで農業に貢献した人に贈られる「臼井牧之助(うすい・まきのすけ)賞」の設定を提唱したのも総一郎氏だった。その厳しい父親が、ピメンタ景気全盛の時代に故郷秋田の小学校(母校)に多額の寄付を行ったことがある。晩年、日本に一時帰国した際、地元関係者が鼓笛隊のパレードを伴って総一郎氏を歓迎している。
 生後3か月でアカラー移住地に入植した昌子さんは、7人弟妹の長女。当初は十字路の入口付近に住んでいたが、8歳になった時に「アグア・ブランカ」と呼ばれる、現在の組合ジュース工場の手前の場所に移った。木村家族は200~300町歩の土地で、綿、米、野菜づくりなどを行っていた。
 昌子さんは少女時代、十字路への3キロの道のりを歩いて学校に通った。当時はまだ周辺には原始林が生い茂り、たまに馬車が通っていた風景を覚えている。家庭では、厳しい父親の影響で会話は日本語だけ。長女として家事や畑仕事の合間に弟妹の面倒を見る毎日で、昼も夜も休んでいる暇など無かったが、「その厳しい生活が後になって良かったと思う」と親の躾(しつけ)に感謝している。
 昌子さんは親の勧めにより、ピメンタの苗をトメアスーで広めた故・加藤友治(ともじ)氏の長男にあたる邦蔵(くにぞう)さん(1999年に73歳で死去)と20歳で結婚した。加藤家も兄弟が多く、11人の大家族。舅姑(しゅうと)、小舅姑(こじゅうと)も多い中、家事・畑仕事に従事したが、「父親の厳しい教育で育ってきたので、何とも無かった」と昌子さんは当時の生活を振り返る。
 夫の邦蔵さんはアイデアの豊富な実業家で、ピメンタ栽培のほかに牧場を持ち、町に薬局、製材所、ガソリン・ポスト(スタンド)を開いたり、食肉業も営業するなど手腕を見せた。仲間の面倒見も良く、大家族で手一杯の家庭に誰ともなく連れてきては、食事を振る舞った。昌子さんはそうした突然の客にも「はい、はい」と嫌な顔をすることなく食事の準備をするなど、「内助の功」を発揮してきた。
 楽しい思い出は少ない生活だったが、「義母さんがすごく優しい人だった」ことが、昌子さんにとっては大きな支えになっていた。義母から味噌作りを教わり、家庭用以外に移住地をはじめ、その後はベレンなどにも販売するようになった。日本食品が手に入りにくい中で、味噌は大層喜ばれた。2009年当時、「今は作る量が減ったね」と話していた昌子さんだが、晩年でも月間400~500キロは作っていたという。
 子どもは三男一女の4人で、それぞれ大学などを卒業しベレンやマナウスなどの都会に出てしまったが、年末年始には必ず家族が顔を合わせていた。
 「1年に1回、全員が揃うのが楽しみです」と昌子さんは、嫁いだ当時から変わらない家で、生活を続けてきた。(2019年4月号掲載。故人、2009年取材、年齢は当時のもの)


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松本浩治 :  
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