横山礼子さん (2024/12/08)
前号(2019年4月号)で紹介した加藤昌子(かとう・まさこ)さんの隣家に住んでいたのが、義妹にあたる横山礼子(よこやま・れいこ)さん(80、山形県出身)だ。天井が高く、がっしりした2階建ての「ピメンタ(コショウ)御殿」に、夫の利得右ェ門(りゅうえもん)さん(85、北海道出身)と2人で暮らしていた。礼子さんは、トメアスーでピメンタの苗を増やしたことで知られる故・加藤友治(かとう・ともじ)氏の長女にあたる。 友治氏は、少年時代に「酒どころ」として知られる山形県で、酒屋に丁稚奉公した経験があり、学校卒業後に貿易会社にも勤めていたという。父親の代には農業をしていたが、「分家すると土地が小さくなる」とし、友治氏は第1回移民としてアマゾンに行くことを決めた。 アカラー移住地(現:トメアスー)に入植した時、礼子さん自身はまだ1歳。当時の記憶は無いが、幼少の頃から「計算ができなくては困る」として友治氏から直接、珠算や日本語を教えてもらったことを覚えている。 8歳頃からは、南米拓殖株式会社が建てたブラジル学校に通い、日本語だけでなくポルトガル語も勉強した。父親はたまに伯字(ブラジル語)新聞を持って来ては、「何が書いてあるのか読んでみろ」と言って翻訳させた。「『何だ、分からないのか』と怒られたこともあり、「一生懸命勉強したものですよ」と礼子さん。家庭内での日本語会話を義務付けられた子弟が多かった当時、斬新な友治氏の教育方針で育てられた。 1933年に臼井牧之助(うすい・まきのすけ)氏がシンガポールから持ってきたピメンタの苗を増やし、「黒ダイヤ」と呼ばれるまでに発展させた友治氏たちの貢献は、今なお語り継がれている。 「私は、父がどこから(ピメンタの)苗を持ってきていたのか知りませんでしたが、とにかく『水をかけなさい』と言われ、毎日忘れずに水をやっていました」(礼子さん) また、友治氏は、山形の酒屋に勤めていた経験を生かし、自宅で自ら日本酒を醸造し、開拓にあえぐ初期移民たちにも振る舞ったという。 戦争中は敵性国語として日本語での会話が禁止され、トメアスーに強制的に追いやられた同郷出身の家族を引き受け、しばらくの間、一緒に暮らしたりもした。警察が自宅にやってきて、日本語関連の書籍などがないか捜しに来たこともあった。友治氏は皇室関連の写真や書籍など日本から持ってきた大切なものを事前に茶箱に詰め、山に持って行って埋めていた。 礼子さんは山形県人の世話により、早くに両親を亡くしたという利得右ェ門さんと20歳で結婚した。利得右ェ門さんは、兄の邦蔵(くにぞう)さんの幼馴染みで、邦蔵さんからピメンタの苗を入手。当初は、川の近くにバラックを建てて住んでいたが、50年代半ばからピメンタ景気に乗り、現在の場所に2階建ての家を造った。その頃はピメンタが20俵(1トン)で、カミヨン(トラック)が1台買えた時代。礼子さんは当時、アメリカ製の「SINGER」ミシンを2台購入し、現在もそのまま使用し続けている。 2男3女の子宝に恵まれたが、子どもたちは自分の意志で10代にもなると、「もっと勉強をしたい」と主張。ベレンの街で寄宿しながら、勉学に励んだ。その頃からピメンタの病害が発生しだし、70年代後半にはマルパウーバというトメアスーとコンコルジアの中間にある場所に農地を購入した。その間、礼子さんはトメアスーの自宅裏で葉野菜などを栽培して組合の市場に販売。その資金で2週間ごとにベレンの街へ行き、子どもたちの生活必需品などを渡す生活を続けた。 子どもたちは全員、大学を卒業。農業を継ぐことなく、それぞれの人生を歩んでいる。マルパウーバの土地も2000年前後には売却した。夫婦2人で暮らしながらも礼子さんは、今でもピメンタを2000本ほど自宅付近に植えている。 「父親が苦労してこの地で育ててきたピメンタが、1本も無くなってしまっては申し訳なくてね」 親への思いを胸に、礼子さんは日々を送ってきた。(2019年5月号掲載。故人、2009年取材、年齢は当時のもの)
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