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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/12/21)
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黒沢繁さん (2024/12/14)
2019年6月号黒沢繁さん.jpg
 日本からの炭坑離職者が移住したことで有名な、リオ・デ・ジャネイロ州にある「フンシャール移住地」。リオ州日伯文化体育連盟の概要によると同移住地には、日本の国策で炭坑離職者を中心に1961年、約50家族が入植したという。(2005年)現在は約20家族と入植当時の半分以下になっているが、ゴヤバ(グアバ)などの果樹を中心とした農業生産活動が行われている。
 岩手県人の黒沢繁(くろさわ・しげる)さん(73)は62年5月9日、「あるぜんちな丸」で渡伯し、リオに到着。フンシャール移住地に入植して、40年以上にわたって住み続けた。13人兄弟の末っ子だった黒沢さんは、兄を頼って岩手県岩手郡松尾村にあった「松尾硫黄鉱山」で働き、機械巻上げ運転手などを担当したという。
 59年から60年にわたって行われた三井鉱山三池炭坑の人員整理反対闘争(三池闘争)などにより、日本政府は国策として炭坑離職者を海外に送り、失業者対策を実施していた。
 黒沢さんが海を渡ったきっかけは、フジ夫人の兄・武雄(たけお)さん(故人)が炭坑離職者として同地に入植していたことが大きい。「百姓の経験もないが、ここに来て良かった」との武雄さんからの手紙で移住地の様子を知り、感化された。
 当時、岩手県庁が率先して移住地入植を勧めていたが、黒沢さんは県庁職員から「同じ開拓するなら、パラグアイに行け」と言われたという。しかし、義兄がすでにフンシャール移住地に入植していたことや自身の身体が弱かったことなどから、ブラジル行きを主張。同移住地入植が実現した。
 黒沢さんは入植当初、養鶏をやりながら野菜づくりを行っていたが、古い鶏舎で11月頃に強風が吹き、鶏が卵を産まないなど、経営的に行き詰まったという。
 「事業団(現:JICA国際協力機構)から融資を受けて細々と野菜つくりなどしていましたが、ブラジルに来て失敗したと思うこともありました」
 キュウリ栽培時には農薬中毒にかかり、鼻血が止まらず「このまま死ぬかもしれない」と思ったこともあった。その後、「同じ農業をするなら果樹作りが良い」とマラクジャ(パッション・フルーツ)を栽培したところ、生産が上がり「何とか息をつけた」そうだ。
 「家内からは『騙された』と、こぼされたことも何回かあり、親兄弟にブラジル行きを反対されましたが、今思うとここに来て本当に良かったと満足しています」と黒沢さん。ブラジルに来てから心臓弁膜症で入院し、「あのまま岩手にいたら、心臓病の手術などもできずに死んでいました」とも語る。
 晩年は、剪定(せんてい)により一年中収穫できるゴヤバを生産していた黒沢さんだが、収入の多くは鉱山時代の年金に頼っていた。
 息子や娘はリオ、サンパウロの都会で働き、ゴヤバ畑の後継ぎはいないという。「いずれは、ここも消えていく。(後継は)ほとんど、あきらめていますよ」と黒沢さんは寂しそうに笑う。
 隣家に住む村山(むらやま)家族は親戚でもあり、同船者でもある。黒沢さんが頼った義兄の弟である健次郎(けんじろう)さんの未亡人・シゲさん(74)と息子の伊佐男(いさお)さん(53)に話を聞く。
 健次郎さんは岩手県出身だったが、ブラジルに来る直前まで北海道の美唄(びばい)炭坑(72年に閉山)で働いていたという。「主人には一切グチは言いませんでしたが、『何のためにブラジルに来たのか』と思ったこともありました。けれど、ここに来た以上、帰るお金もなく働くしかなかったのです」とシゲさん。「来た頃はテレビも何もない時代。夜になるとホタルが多くてね」と、当時を振り返る。
 それぞれの思いを胸に黒沢さんたちは、移住地での生活を続けてきた。(2019年6月号掲載。故人、2005年5月取材、年齢は当時のもの)


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松本浩治 :  
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