三栗国雄さん (2024/12/21)
第2次世界大戦後、日本の国策による第1回松原移民として1953年7月、兄の構成家族の一員でブラジルに渡った三栗国雄(みくり・くにお)さん(76、和歌山県田辺市出身)は現在、南マット・グロッソ州のドゥラードス市に在住している。 大工だった兄の保男(やすお)さん(83)は家長として夫人と国雄さん、そして2人の子供と一緒に渡伯したが、ブラジルに着いてすぐに1人の子供が病気にかかり、入植どころの話ではなかったという。保男さんはドゥラードスで子供の入院費用を捻出するために家具づくりを行うしか手だてがなかった。国雄さんは当時、26歳の働き盛り。兄夫婦とは別に単身、移住地までの道づくりのためにヤマ(原始林)に入った。 「あの時は本当に大変でした。甥っ子の病気は良くならず、サンパウロに連れて行くにも費用がない。兄はブラジルに来てから苦労の連続でした」と国雄さんは、当時のことを今も鮮明に覚えている。結局、保男さんの息子は治療のかいなく息を引き取り、保男さんはその後、松原移住地に5年ほどいたが、ドゥラードスやビセンチーナに転住。その後、夫人も亡くなり、現在は南マット・グロッソ州の州都カンポ・グランデでひっそりと暮らしているという。 一方、独身だった国雄さんは移住地内で隣に住んでいた千鶴(ちづる)さん(75)と結婚した。千鶴さんは戦前にサンパウロ州カフェランジアで生まれ、その後、家族と日本に住んでいたが、ブラジルに再渡航したという。国雄さんは保男さんが持っていた土地の3分の1と、千鶴さん家族の土地3分の1の計20ヘクタールを借りていた。 その後、保男さんが移住地を出て、千鶴さん家族からも「土地を買ってくれ」と言われ、2ロッテ(60ヘクタール)の土地を所有することになったが、その土地は移住地でも一番奥の「コルモ・フンド」と言われる川沿いで、「大きな雨が降れば、土がみんな流された」という悪条件の場所だった。それでも入植5年目以降からは念願のカフェ(コーヒー)もできだし、2ロッテに2万本のカフェをさらに植えるなど、生活は安定したかに見えた。 生活を一変させたのが霜害だった。72年の霜では何とか耐えきれたものの、75年の大霜でカフェは根こそぎ焼かれた。カフェを育てるのに全精力を注ぎ込んできたが、一瞬にして全滅し、「これが、ほんまの地獄やと思った」と振り返る国雄さん。それでもまだカフェの芽が出ると信じたが、再び復活することはなかった。諦めきれないのは当然で、その頃、金になる生産物はカフェしかなく、「(カフェに)頼るしかなかった」という。 大霜の被害に遭う前の72年には、自分の子供の教育のためにドゥラードスの街に出ていた国雄さんは、平日は移住地、週末は街に帰るという生活を続けていた。しかし、その頃、銀行の融資を受けていたために借金返済の義務があった。カフェの国際相場も悪く、値段は上がらない。「移住地にいても仕方がない」と、土地を叩き売って街で金を稼ぐしかなかった。 ブラジルに来る前に国雄さんは、戦前に綿作りでブラジルに行った経験のある近所の人から「ブラジルになんか、行くところやないですよ」と言われたことがあるという。しかし、当時の日本もまだ敗戦の影響ですさみ、「ブラジルに行けば何とかなるやろ」という気持ちが、国雄さんには強かった。戦時中は「同じ徴兵で引っ張られるなら」と志願して兵隊に。和歌山と奈良の県境にいたが終戦となり、日本での生活には限界を感じていたことも大きかった。 国雄さんに当時の松原移住地の様子を聞いたが、特に嫌がるわけでもなく淡々と話してくれた。 「その時の苦労があったから今がある。人間は苦労するものですよ」 忘れられない松原移住地での思いが、国雄さんを支えてきた。(2019年7月号掲載。故人、2003年8月取材、年齢は当時のもの)
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