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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2025/02/03)
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滝井年子さん (2024/12/29)
2019年8月号滝井年子さん.JPG
 コチア青年など戦後移民のパトロンの夫人として、サンパウロ州スザノで「新移民の会」を率先して作り、当時の若者に手作り料理などを振る舞ってきた滝井年子(たきい・としこ)さん(94、旧制・山下)。サンパウロ州リベイロン・プレット近くのマットン市で生まれた日系2世だが、父親が当時日本国籍も申請取得してくれていたため、ブラジルと日本の二つの国籍を持っている。
 年子さんの父親・鶴松(つるまつ)さん(熊本県出身)は日本の京都でカネボウ(当時の鐘淵紡績)に勤めていた際、母親・ヨシエさん(香川県出身)と結婚。長男が生まれたが、ヨシエさんの体が弱かったこともあり、ブラジルでの「金の成る木(カフェ)」の話を聞いて渡伯することを決意。1924年頃に家族3人で祖国を離れた。
 入植地のマットン市でカフェ栽培を行ったが、「来たら、とんでもない所で、騙された」と同地を離れ、家族でサンパウロ市へと出た。年子さんがまだ1歳半くらいの時だったという。
 鶴松さんはサンパウロ市ピリツーバでカボチャやキャベツなどの野菜作りを行い、年子さんも8歳頃から畑仕事を手伝わされた。その後、イタペセリカ・ダ・セーラで野菜作りをしたこともあったが、数年後にはまたピリツーバへと戻り、鶴松さんは野菜とともにイチゴ作りなど農業をしながらフェイランテ(青空市場業者)を相手に生産物を売る生活を続けた。
 年子さんは8歳頃から地元の日本語学校にも通ったといい、「楽しみは運動会だったですね」と当時を振り返る。22歳でキリスト教関係の日本人の紹介により、スザノ市のインジオ・チビリッサ街道近辺に住んでいた滝井正剛(たきい・せいご)さん(2001年に84歳で死去)と結婚。その数年前の半年間は、父親の勧めにより「赤間学園」で花嫁修業を行い、同学園内で宿舎生活を送った。年子さんは裁縫が専門で、卒業する間際には自分の着る服も作ったという。
 結婚後はスザノに転住し、約70年間住み続けた。正剛さんも農業一筋の人生を送り、野菜をはじめ、ブドウ、トマト、バタタ(ジャガイモ)などを生産。その間、娘ばかり6人の子宝に恵まれた。第二次世界大戦中は日本人が敵性国民とみなされ、「野菜などを売りに行った時は、夫婦でも外では日本語を話さないように気をつけた」と話す年子さん。戦後に苦しい生活を強いられた日本の親せきに、ブラジルから砂糖や着物を送ったこともあるそうだ。「母(ヨシエさん)は日本から行李(こうり)に着物をたくさん入れて持って来て、こんな着物をブラジルで着ることはないと話していましたが、その着物を日本に送り返して(親せきたちに)喜ばれたと思います」
 30年ほど前には、娘2人が日本に住んでいたこともあり、正剛さんと夫婦で初めて日本を約1カ月間訪問した。寝台列車で東京都から島根県まで行った際、酒を飲むのが好きな正剛さんが酔っ払って別の寝台で寝てしまったエピソードが今でも家族の笑い話になっていると教えてくれた年子さんは、「日本ではどこでも食べ歩いて、本当に良かった」と両親や夫の祖国を肌で感じたようだ。
 数年前に住み慣れたスザノを離れ、現在はサンパウロ市内の四女の家族と一緒に住む年子さんは現在、週に3回は近くのAFAI(associacao dos familiares e amigos dos idosos=高齢者の家族並びに友達の協会)に通い、絵を描いたり、『蛍の光』や『浦島太郎』などの童謡を歌ったりして楽しんでいる。
 年子さんの取材は2019年6月下旬に、サンパウロ市北部に住む次女の古藤(ことう)ミルテス治美(はるみ)さん(69、3世)の自宅で行った。その夫でコチア青年の古藤丈次(じょうじ)さんは、2000年に62歳ですでに亡くなっている。
 長年にわたって住んだスザノ時代の思い出が深い年子さんは、戦後移民のコチア青年たちを家族で受け入れたことを今もはっきりと覚えている。「あの頃は『新移民会』を作って、よく青年たちにご馳走しましたよ。(酒好きな正剛さんは婿(むこ)の古藤丈次さんと)一緒に飲むのが好きでね。自分の子供は娘たちだけだったから、(丈次さんのことを)自分の息子のように思っていたんでしょうね」と話し、往時を懐かしんでいた。(2019年8月号掲載)


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松本浩治 :  
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