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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2025/02/03)
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鈴木厚生さん (2025/01/10)
2019年10月号鈴木厚生さん.JPG
 2019年3月からサンパウロ州の観光都市カンポス・ド・ジョルドン市にある高齢者養護施設「カンポスさくらホーム」で運営委員長を務める鈴木厚生(あつお)さん(65、北海道出身)は、1970年代に日本のリンゴ、梨や桃など温帯果樹生産技術をサンタ・カタリーナ州に指導・導入した後沢憲志(うしろざわ・けんじ)農学博士(故人)の通訳兼運転手を務めた経験がある。
 61年、両親と兄姉に連れられて7歳で渡伯した鈴木さんは、家族でブラジル南部のリオ・グランデ港に上陸し、リオ・グランデ・ド・スル州のペロッタスの農地に入植した。親たちは同地で加工品工場の原材料となるキュウリやアスパラガスなどの野菜作りを行い、鈴木さんはブラジル学校に通いながら家庭で自然と日本語も覚えた。ポルト・アレグレ近郊地のラミを経て、鈴木さんが12歳の頃には父親が果樹生産を希望したことにより、家族でサンタ・カタリーナ州のラーモス移住地に転住した。同移住地で家族の手伝いをしながらブラジル学校にも通っていた17歳の時、JICAの初代技術専門家として71年に後沢博士が来伯し、ラーモス移住地の隣町であるビデーラ市の温帯果樹研究所を拠点に滞在。鈴木さんはラーモス移住地関係者から依頼されて同博士の通訳と運転手を務め、単身ビデーラ市に住むことに。昼間は博士の通訳などをし、夜は地元の中学校に通う生活を続けた。
 「後沢先生は厳しい人で、『お前は日本人なんだから、日本人の魂を持て』とよく言われましたね」と振り返る鈴木さんは当時、厳しい態度の裏に愛情が込められた博士の考え方や技術を日々、吸収していった。後沢博士以外にも多くの日本からの技術専門家に接してきた鈴木さんはその後、サンタ・カタリーナ連邦大学農学部を卒業。82年から日本の文部省国費留学制度で青森県の弘前大学で果樹、土壌・肥料の研究に明け暮れ、自ら農業技師としての実力を身につけていった。当時、すでにブラジルでサンパウロ出身の夫人と結婚していたこともあり、長男は青森県で出生している。
 帰伯後はEPAGRI(サンタ・カタリーナ州農牧研究普及公社)のカッサドール試験場で働き、99年には場長に就任。その間、サンタ・カタリーナ州を中心に周辺地域を歩き回り、農業技師としての指導を実践してきた。また、JICAのプロジェクトとして茨城県つくば市で日本梨の研究にも打ち込み、そうした技術をラーモス移住地などで広めてきた。
 2016年にEPAGRIを定年退職した鈴木さんは、子供たちもそれぞれに独立したこともあり、サンパウロ州カンポス・ド・ジョルドン市に転住。当初、同地に住む日系人から「カンポスさくらホーム」のことを知らされ、週1回、ボランティアとして訪問していた。しかし、次第に訪問回数も増え、長年、同ホームの運営委員長をしていた辻雄三(つじ・ゆうぞう)さん(76、岡山県出身)からも信用されるようになった。
 同ホームでは毎年7月、8月に恒例の「さくら祭り」を開催しており、18年には50回目の節目を迎えた。と同時に同祭がカンポス・ド・ジョルドン市の無形文化遺産に登録され、ホームに隣接する「さくら公園」を整備することになった。その結果、51回目となった今年の「さくら祭り」に合わせて、園内にミニ日本庭園や大仏などが設置され、山の頂上には展望台も造られた。
 19年3月、辻さんから同ホームの運営委員長をバトンタッチされた鈴木さんは、ホームに携わるようになってまだ3年と日は浅いが、これまでの農業技師の経験を生かし、ホーム活性化のために協力している。それでもホームの課題はまだ山積しているのが現状で、職員の教育の問題や年々高齢化が進む入居者が余生を満足して暮らせようにするために、やるべきことは数多い。「これまでお世話になった方々への感謝のつもりで、少しでも自分のできることを恩返ししていきたい」と語る鈴木さんは、ホームのボランティア活動にさらなる意欲を見せていた。(2019年11月号掲載)


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松本浩治 :  
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