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マツモトコージ苑
     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2025/02/03)
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那須勝さん (2025/01/19)
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生前の那須勝さん
 南マット・グロッソ州の松原移住地内に57年間にわたって住んでいた那須勝(なす・まさる)さん(2010年7月に68歳で死去、和歌山県田辺市出身)。1953年7月8日、オランダ船の「ルイス号」(松原移民第1船)で父母に連れられて渡伯し、サントス港に上陸した時は11歳だった。
 往時はカフェ生産で栄えた松原移住地。車酔いしやすく、入植してから5年間は移住地を出たことはなかったという勝さんは「その頃はカフェを植えることしか頭になかったですよ。5年後に(移住地から約30キロ離れた)ファチマ・ド・スールに初めて出た時は、かなり変わったと驚きました」と、当時の同地域の発展ぶりを振り返る。
 しかし、75年に大霜害の被害を受け、松原移民の多くが移住地から離れていった。そうした中で、那須家族のカフェ畑は幸運にも霜害を免れた。土地の傾斜が東向きになっており、被害を受けにくかったのだという。渡伯当時の入植地を家長たちがクジ引きで決めた時は、そんなことは分からない。しかし、後になって、その差は明白となった。75年当時、那須家族が植えていたカフェは2ロッテ(60ヘクタール)に2万本と、当時ではかなり多い本数だった。
 勝さんが松原移住地に入植してから一番困ったことは、ブラジル人学校に通うことだった。言葉が分からず、文字通り「閉口」した。その反動もあり、「子供たちには、どんなことがあっても日本語を学ばせたい」と勝さんは生産活動の合間に、千草(ちぐさ)夫人(75、和歌山県田辺市出身)とともに自宅や移住地内の会館などで日本語を教え続けてきた。特に千草さんは、幼(おさな)なじみの勝さんと結婚後に自分たちの子供をはじめ、移住地の子弟など多い時で30人もの生徒を教えていたことがあり、2001年まで日本語教育を継続した。そうしたこともあって勝さんは「後になって『両親があの時、こういうことを言っていたな』と分かってくれれば、それでいいですよ」と、ブラジルで生まれた2世であっても日本語能力が必要であることを強調していた。
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夫人の千草さん
 移住地でカフェが生産されている頃は様々な催しも多く、厳しい生産活動の中で野球、マージャン大会や青年活動などが行われていた。勝さんも生前は釣り、野球、マージャンの趣味は欠かさず、千草さんは「自分たちの生活を支えてもらっていたこともあり、この3つの趣味だけは絶対に嫌とは言わなかった」と勝さんへの思いを表す。
 今や那須家族とサンパウロ州マリリアからの再移住者を含め、わずかに3家族となっている松原移住地には、広々とした畑だけが広がっている。以前は日本人会もあったが、現在は当時の活動資料もほとんど残っていない状況だ。移住地内にあった当時の会館は、残念ながら2010年10月に廃屋だった家屋が倒れ、地元の牛乳協会に土地を寄付。現在は記念プレートのみが会館の跡地に残っている状態だそうだ。入植3周年には盛大な祝賀パーティーも催され、当時の州知事だった「ジョン・ポンセ」氏も出席した。同州知事の名前が移住地の名前になっていた頃もあった。また、入植5年を記念して58年には同会館で第1回家族慰安演芸会も開催されるなど、松原移民にとっては思い出深い場所でもあった。
 そうした中で、それまでのカフェ生産から、ミーリョ(トウモロコシ)や大豆の雑作に変わった現在も移住地内では未亡人の千草さんとファチマ・ド・スールに住む息子の一男(かずお)さん(45、2世)が生産活動を続けており、計90ヘクタールの土地を所有している。
 勝さんは自動車事故が原因で2010年7月に亡くなったが、千草さんにとってその前後に不思議な出来事があった。勝さんが亡くなる前年の09年5月、「(サンパウロ州)マリリアに野球の試合を見に行こう」と夫から誘われた。「今まで野球にはいつも(勝さん)1人で行き、誘われたことなどなかったのに。この時が初めてで最後でした」と千草さん。また、勝さんは事故の前からすでに身辺整理をしていたようで、銀行の支払いなど仕事の段取りも済ませており、勝さんの死後に家族が困ることはなかったという。さらに驚いたのは、勝さんの葬儀の時、地元のファチマ・ド・スール市長や近隣のビセンチーナ市長からもお悔やみの花束が届き、日本人・日系人のみならず数多くのブラジル人の友人たちで会場がいっぱいになったことだ。
 「頑固でしたが、意思が固くまっすぐな人で、面倒見が良いのでブラジル人からも親しまれていました。あの人の人柄だったんでしょうね」(千草さん)
 「気が付いたらここにいたという感じです。出て行った人とは話が違うかもしれませんが、移住地として、ここは恵まれた土地でした」と、2003年に取材した際、勝さんは松原移住地の魅力をそう語っていた。(2019年12月号掲載。故人、2003年8月取材、2019年追加取材)


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松本浩治 :  
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