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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2025/02/03)
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中西恵美子さん (2025/01/26)
2020年1月号中西恵美子さん.JPG
 昨年(2019年)2月に米寿(88歳)を迎えた中西恵美子(なかにし・えみこ)さん。現在は息子と娘と一緒にサンパウロ市内に住んでいるが、元々は台湾近隣の諸島「澎湖島(ぼうことう)」で生まれ育ち、第2次世界大戦後は大阪府に引き揚げ、元夫の伯父の呼び寄せでアマゾン地域のベレン市近郊に入植するなど、波乱に満ちた人生を送ってきた。
 中西さんの父・丑松(うしまつ)さんは、大阪府南部で農作業などを行っていたが、社交性に富んだ性格で商才を生かし、旧日本海軍軍属の雑用の扱いで台湾南部(台南)の精糖会社で勤務することに。台湾語が話せたために、地元の日雇い人夫(クーリー)を統括していた。同時期に蘇澳(すおう)で漁師として働く兄たちの食事の世話をするため、台湾に来ていた入枝(いりえ)さん(愛媛県出身)と結婚。その後は、澎湖島の首都にあたる馬公(まこう)で旧日本軍の基地関係者を相手にした鰹節(かつおぶし)工場で働いたり、軍用飛行機のクッションの材料となる「海綿(かいめん)」を収穫して日本(大阪)に輸出して販売するなど、手広く商売を行っていた。
 恵美子さんは台湾南部・高雄(たかお)の第1女学校に12歳で入学したが、次第に戦時色が濃くなり、台中の石岡(いしおか)に母親や妹らと疎開中に高雄は連合国側の爆撃を受けたという。1945年12月、終戦から4カ月経った時に父の丑松さんが疎開先に家族を呼びに来て、米国の「リバティ号」という引き揚げ船で、広島県の大竹(おおたけ)での検疫を経て、父の故郷である大阪へとたどり着いた。
 大阪では、父の実家の泉北(せんぼく)郡の倉庫に家族8人で住んだ。戦後の大阪は混沌としていたが、ここでも父の丑松さんが商才を生かし、和歌山方面から梅や塩、じゃこ(いりこ)、昆布を仕入れて売った。その結果、飛ぶように売れ、最初の1年で100坪ほどの自宅を泉北郡東陶器(ひがしとうき)村に購入することができたという。
 当時14歳だった恵美子さんは、いとこの姉たちが通っていた旧制高校の黒山女学校(バブリーダンスで有名となっている現在の大阪府立登美丘(とみおか)高校の前身)の編入試験を受けて合格。2年間を同校で過ごした。その間も父は、昆布と干しニシンを仕入れ、「昆布巻き」を作って売るなど、商売上手だった。
 黒山女学校を卒業した恵美子さんは、母親の「手に職を付けなければ」との言葉で、大阪市内にあった「山本洋裁学校」に3年通った。洋裁学校卒業後に同校から「先生として残ってほしい」と言われたが、「生徒に教えるより、実技をやりたい」との思いがあり、大阪市内の洋裁店を紹介してもらった。洋裁店では当時、米軍相手の売春婦が着るドレスなどの注文が多く、20歳前後の女性約20人が一緒に働いていたという。恵美子さんは同店で3年働いた後、独立して自分の自宅で注文を受けたところ、注文が殺到。その頃、澎湖島での小学校時代の同級生たちと久々に会うことになり、その中の1人だった石田照男(てるお)氏(故人、熊本県出身)と知り合い、父の丑松さんが勝手に役場で石田氏との戸籍を作り、恵美子さんが知らないうちに石田氏が中西家に婿入りする形で結婚することになった。恵美子さんが24歳の時だった。
 結婚して息子も2人が授かった頃、夫が1人で亡母の十七回忌で故郷の熊本県を訪問し、兄弟らと会っていた時のこと。1953年頃に戦後初期のアマゾン移民としてブラジルに渡っていた石田氏の伯父からの手紙で、当時隆盛を誇ったピメンタ栽培で成功したことを聞き及び、兄弟して「ブラジルに行こう」との話になったそうだ。
 大阪に戻った夫からそのことを聞いた恵美子さんは「そんな所に何しに行くんよ」と当初は反対したが、夫の強い意志には勝てず、60年頃に「あるぜんちな丸」で家族4人と石田家の兄弟たちと一緒に海を渡る決意をした。
 ベレンで下船した中西家族は、当時の汎アマゾニア日伯協会の副会長だった長谷川氏の世話になり、ベレン近郊のコッケイロでピメンタ栽培を行った。その後、数年して伯父がいたオーレンに移り、同地で7年ほどピメンタ(コショウ)作りに励んだ。電気もないランプ生活など、慣れない暮らしではあったが、「アマゾンに行くと決めて行ったので、私は特に気にもしなかった」と恵美子さんが振り返る通り、生活そのものには抵抗がなかった。しかし、一番の問題は子供の教育面で、あまりにも低い教育レベルに恵美子さんは、子供たちをベレンの日系子弟を集めた寄宿舎に住まわせて勉強させるため、自らオーレンとベレンを何度も往復するなど奔走した。夫はオーレンで労働者とともに働くなどピメンタ栽培に精を出していたが、生産費用もバカにならない。そのため、恵美子さんがベレンで洋裁の仕事を請け負うようになり、やがて、子供たちとともにベレンで生活するようになった。
 子供たちも大きくなり、長男は高校卒業後にサンパウロ州のITA(航空技術大学)に合格。その後、末娘も学業でサンパウロに出たことから自らもサンパウロ市へと移り住み、90年代初頭には日本航空(JAL)の機内食作りの広告を見て、60歳の時に日本に単身、出稼ぎにも行った。4年間を成田空港近くの日本航空の宿舎で過ごし、金を稼いでは、日本中を旅して歩いた。
 「今から思えば、あのJALでの出稼ぎ時代が一番良かった。洋裁の仕事をしたこともあったけど、会社から月給をもらって生活したのは、あの時が初めてだったのよ」と恵美子さんは当時を振り返る。
 現在、恵美子さんは毎週木曜日に熟年クラブ連合会で行われているポルトガル語教室に通っており、家庭では長男と末娘と一緒に暮しながら、充実した日々を送っている。(2020年1月号掲載)


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松本浩治 :  
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