高橋凡児さん (2025/02/14)
「しっかりした意志を持っていないと、今の時代は生きていけない」―。サンパウロ州マイリンケで養鶏業を行っていたコチア青年1次6回生の高橋凡児(ぼんじ)さん(70、岩手県出身)は常に上昇思考の思いを持って活動してきた。 詩人・宮沢賢治が教師をしていた花巻農学校を卒業した高橋さんは、海外に出たいとの思いを強く持つようになり、ブラジル行きを実現するため、東京の海外移住学校でポルトガル語修得に力を入れた。 5人兄弟の次男として米作農家に生まれた高橋さんのブラジル行きに母親や兄弟は反対したが、父親だけは「自彊不息(じきょうふそく=自ら努めて励むことの意)」という直筆書を渡し、息子の船出を祝った。その書は今でも高橋さんの家に飾られている。 1956年11月、オランダ船「ルイス号」で海を渡った高橋さんは当時、21歳。サンパウロ市近郊のイタケーラで養鶏と桃などの果樹生産をしていた三沢正人(みさわ・まさと)氏(故人)の農場に配耕された。 「その頃の養鶏は300羽で生活でき、もっと養鶏の経営的な勉強をしたいと思った」と高橋さんは、パトロンの許可を得て1年半で同地を離れた。スザノでブラジル人との共同経営でブロイラーを始め、その間、マイリンケに土地を購入。独立する機会をうかがっていた。 65年3月、花嫁移民として同県人の久子(ひさこ)さんが、「さくら丸」で渡伯。一関市で郵便局員をしていた久子さんは、海外移住家族会に入っていた高橋さんの兄と顔見知りで、凡児さんのことを紹介された。 「田舎で一生を過ごすとは思っていなかったし、若かったから後先考えず、ブラジルの方が面白そうだと思いました」(久子さん) 高橋さんはリオに到着した久子さんを背広姿で出迎え、船賃を払ってそのままサントスまで乗船。新妻に対する思いを示した。 高橋さんは独立志向が強く、逸早く組合からも離れていた。自ら養鶏のエサづくりや販売ルートの確保などを実践し、スザノ時代の生活が大いに役立ったという。 70年初頭、久子さんとの結婚を勧めた高橋さんの兄が来伯し、1か月間滞在。その際、兄は岩手県北上市で温泉が出たことで、地質調査が金になることを説明し、高橋さんに帰国するよう説得した。 「そんなに良い仕事なら」と高橋さんは、ブラジルを撤退する意志はまったく無かったが、里帰り制度で一時帰国。日本で約40日間、地質探査の勉強を行い、探査機械を購入してブラジルに持ち帰った。「自分一人ではどうにもならない」とサンパウロ大学の教授などをあたり、地質探査をしている企業などを紹介してもらった。「生活の糧にしたい」と企業で働いていた日系人と知り合い、探査のためにブラジル各地を歩き周った。 前向きな気持ちとともに、ブラジルの躍進が目覚しかった70年代半ばに始めたことが、利益につながった。伯国政府のプロジェクトにも関わるようになり、「ブラジルに開眼した」という。その間、養鶏業は久子さんが継続して行っていたが、ハイパーインフレなど不景気になると地質探査の仕事も少なくなり、高橋さんは85年頃から再び養鶏の仕事に戻った。 2005年当時、20ある鶏舎に約15万羽を飼っていた高橋さんはその後、長男夫妻に少しずつ仕事を引き継ぎながら、人件費を減らした自動システムの道を実現化しつつあった。 「『今の時代に、こんなやりにくい仕事をよく続けているな』と言われるけど、絶えず新しい方法を考え、経営手腕があれば克服できる。しっかりした意志を持っていないと生きてはゆけない。出稼ぎで日本に行く話も多く聞くが、東北気質で何事も少しずつコツコツやってきたことが自分を支えてきた」と高橋さんは、自身の仕事に対して常に誇りを持っていた。(2020年3月号掲載。故人、2005年12月取材、年齢は当時のもの)
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