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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2025/03/31)
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栗山平四郎さん (2025/03/01)
2020年5月号栗山平四郎さん.jpg
 「ブラジルに行くという父親に自分一人だけ賛成したら、母親や兄妹たちに後で恨まれてしまって」―。こう話すのは、トレゼ・デ・セッテンブロ文化協会(ロンドニア州ポルト・ベーリョ市近郊)元会長の栗山平四郎(くりやま・へいしろう)さん(77、東京都出身)だ。
 栗山家は「3~4代続いた江戸っ子」(平四郎さん)で、父の信二(のぶじ)さんは知人のゴム会社で働いていたが、1943年に徴兵で中国大陸へ。最前線の戦地に派兵された。戦後、日本に復員することができ、再び同じゴム会社に働いていたが、グァポレ直轄州(現・ロンドニア州)への移住募集の記事を新聞で見て、家族でブラジルに渡ることを決意したという。平四郎さんは渡伯当時、17歳。東京では、昼間に働きながら夜間の高校に通っていた。
 ブラジルに夢を託して渡ってきた人の中には戦前、北海道や満蒙(まんもう)開拓を経験した人が少なくないが、戦後直後の厳しい経済状況の中、狭い日本にいるよりも広い大陸への移住を目指した人が多かった。特に戦後のアマゾン地域に入植した家長の中には、そうした経験を持つ人も多く、トレゼ・デ・セッテンブロ植民地に入植した家長たちも例外ではない。
 信二さんもその一人だったのだろう。「ブラジルに移住したいと父は渡伯する何年も前から言っていましたよ。アマゾンの奥地なんかに誰も行きたくなかったんでしょうね。グァポレ直轄州の募集に申し込んだら、当たっちゃってね。外国に行って何かやるのも面白いだろうと、父の希望に賛成したんですが、我々子供たちの将来も考えていたんでしょうね」と平四郎さんは当時の父親の思いを振り返る。
 54年7月に植民地に入植したが、できているはずの合宿所が完成していないため、「ビンテ(20キロ)」と呼ばれた完成前のハンセン氏病病院を一時的に入植者たちの合宿所として使用した。また、植民地ではゴム栽培が義務付けられたが、事前に約束されていた耕地の伐採は完了していない。入植2カ月後の9月になれば雨季に入ってしまう。「ブラジル人の人夫(にんぷ)に任せているだけでなく、自発的に早く伐採を終わらせてしまおう」と家長会議で決定。15歳以上の男子が各家族から集まって、各耕地の伐採作業を行い、寄せ焼きした後に、当面の食料確保のためにトウモロコシや陸稲(おかぼ)をまいた。
 「ゴムを1家族につき、5000本植える義務があると言われて、何年かたったあかつきには本地券を無償でもらえるはずだった。結局、その前に(植民地を)出ましたがね」
 兄の安敬(やすたか)さん(80)は入植後、数年でサンパウロへと出て行った。平四郎さんは植民地にとどまり、知人の紹介により61年ごろにキナリー(アクレ州リオ・ブランコ市近郊)移民だった泰子(やすこ)さん(旧姓・中瀬)と25歳で結婚した。
 永年作物のゴムは見込みがなく、野菜などを作ってポルト・ベーリョの町に売りに行く生活を続けたが、70年代半ばにポルト・ベーリョ市に出てメルセアリア(雑貨商)の商売を始めた。父の信二さんは植民地に残り、ゴムと一緒にカスターニャ・ド・パラー(パラー栗)を植え、現在も植民地には1000本ぐらいの樹木があるという。
 その後、愛妻の泰子さんが一緒に訪日中に急死。平四郎さんは、約10年間独身生活を続けたが、義姉の勧めもあってサンパウロで援協が行っている「お見合い会」で輝子(てるこ)さん(72、2世)と知り合い、2004年に再婚した。
 「日本に帰って住みたいと思ったこともないし、当時はそんなことを考える暇も無かった」と平四郎さん。トレゼ・デ・セッテンブロ文化協会については、「日本人会(文協)を末永く続けてほしいが、日系人も少なくなるばかりで次の世代に『こうしろ、ああしろ』とは言えない。自由に任せるしかない」と述べ、14年に開催された入植60周年を機会に集まった懐かしい人々と出会えて満足した表情を浮かべていた。(2020年5月号掲載。2014年7月取材、年齢は当時のもの)


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松本浩治 :  
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