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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2025/03/31)
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小川晄子さん (2025/03/11)
2020年6月号小川晄子さん.jpg
 小原(おばら)流生け花ロンドリーナ支部(ACIOR)の支部長をはじめ、茶道、謡(うたい)など、ブラジル国内で日本文化伝承に尽力してきた小川晄子(おがわ・てるこ)さん(82、宮城県出身)は、「自分が教えたことを基本に、オリジナルのものを作っていってほしい」と、後進に望みを託す。
 小川さんの父親は、先祖代々続いてきた西本願寺の僧侶で、最期は東京の築地で若い僧侶を育てていたという。地元、宮城県の白石高校を卒業後、第2次世界大戦で被害者となった浮浪児の世話をするため仙台市内の中央児童相談所で奉仕活動を2年ほど続けていたた小川さんは、1950年から宮城県立の知的障がい者施設で8年間働いた。
 戦前、戦後にかけて三味線、長唄などの音曲(おんぎょく)にも携わってきた小川さんが、小原流生け花に触れたのは48年。「自分で振り返ってみると、皆、素晴らしい先生方に出会えました」と微笑む。
 ブラジルに渡るきっかけをつくってくれたのが、母親の妹。父親とは対照的に東本願寺に関係していた叔母から「ブラジルで日本文化を広めてほしい」と言われ、58年3月「あめりか丸」で単身、神戸港を出航した。
 「思春期に仙台で仏教のご高名な先生方にお会いしていたので、ブラジル行きには特に迷いもなく、『独りで生まれ、独りで死んでいく』覚悟でした」と小川さん。渡伯に際して、花や茶の道具類を大箱に18箱と大量に持参した。
 叔母のつてでロンドリーナの東本願寺の世話になっていた小川さんは渡伯当時、周りの要望に応じて寺や文協関係者に生け花を教授。その頃、生け花そのものが珍しかったが、親から日本文化について嫌というほど聞かされていた地元の日系2世層にとって、生け花は「憧れの的」だったという。
 66年9月に小原流生け花ロンドリーナ支部が正式に認可・発足し、30人の門下生から活動が始まった。小川さんはこの時から、ブラジル国内での日本文化伝承の活動を本格的に開始。ロンドリーナをはじめとするパラナ州のみならず、リオ・グランデ・ド・スル州など遠方地での出張教授も実施し、日本からの来客やイベント、世界で開催される花展があるたびに各地を飛びまわった。
 「自分たちで考えて創り出すこと。何をやるにしても最も意義のあることをしたい、との思いが強かったと思います」
 75年5月、待望の小原流生け花センターをロンドリーナ市内に落成させたが、小川さんにとっては「清水(きよみず)の舞台から飛び降りたような気持ちだった」という。当時、生け花活動はロンドリーナが拠点だったが、クリチバでも出張教授を行い、順調に進んでいた。「ロンドリーナは生産地帯で、クリチバは消費地帯。遊び事は消費地帯でないと伸びないというのが世の常で、センター建設は小原流創立当時からの総意でしたが、正直、ロンドリーナに建てるのは辛かった」と、小川さんは当時の心境を振り返る。
 こうした活動が認められ、86年6月にはロンドリーナ市から名誉市民章も受章した。
 生け花をはじめとする日本文化伝承活動を続け、独身を貫いてきた小川さんは、「今は花をやる方々の生き方も考え方も違い、ブラジル人の門下生が多くなりました」としながらも、「私が教えたことを基本に、それぞれのオリジナルのものを作ってほしい」との思いを強くしている。(2020年6月号掲載。2007年12月取材、年齢は当時のもの)


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松本浩治 :  
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