奥田義夫さん (2025/03/21)
南マット・グロッソ州ドゥラードス市内で、餅(もち)をはじめ、豆腐、揚げ物など日本食品の製造販売業を営んでいた奥田義夫(おくだ・よしお)さん(75、和歌山県田辺市出身)を取材するために同地を訪れた際、本人は両腕を真っ白にしながら黙々と餅づくりに励んでいた。 7人兄弟の末っ子だった奥田さんはブラジルに渡る前、後(のち)の松原移民第1次船代表責任者となる故・納谷(なや)三郎さんとともに、田辺市で4年ほど「芋飴(いもあめ)」づくりを行っていたという。当時の日本は1950年の朝鮮戦争の後、経済状態も悪く、思うように生活が成り立たない時代だった。 53年3月頃、当時「西牟(にしむろ)」と言われた町役場から、納谷さんが条件の良い話を持ち帰ってきた。「ブラジル行きの移民を募集している。ここで芋飴を作っているより、よっぽどええ」―。そう言われた奥田さんは、自分も一攫千金の夢を求めてブラジルに行くことを決意した。その頃、仲人を通じて貞子(さだこ)さんと知り合い、同年4月8日に結婚。約1カ月後の5月13日には第1次船の21家族とともに神戸港を出航するという、何とも慌しい日々だった。 ブラジルに行く条件として、1家族に3人の働き手が必要だったため、いとこの野久保耕治(のくぼ・こうじ)さんに構成家族になってもらった。しかし、船の中で身ごもっていた貞子さんが流産し、サントス港に着いたと同時にサンタ・カーザ病院に入院。奥田夫妻は他の家族と一緒に目的地のドゥラードスまで行くことができず、「松原移住地」生みの親である松原安太郎(やすたろう)氏がサンパウロ州マリリアに持っていた農場に20日ほど世話になった。 他の家族に遅れること約1カ月。奥田夫妻はマリリアから「ティコティコ(小型セスナ機)」でドゥラードス入り。ちょうど、その頃は松原移民第2次船の20家族も到着しており、移住地の道づくりに一緒に参加した。 ようやくのことで松原移住地に入植できたが、奥田さんは新天地での思いもかけない苦労の連続で、精神的にかなり参っていた。農業の経験もなく、戸惑うことばかり。貞子さんも身体が本調子ではなく、医者通いの日々が続いたという。 身体の弱い貞子夫人と小さな子供を抱えて奥田さんは、63年に移住地の土地を売り、約100キロ離れたポンタ・ポランの兵舎の前で飲食店(BAR)を開けた。しかし、失敗して金は「スッカラカン」の状態に。当時、すでに子供は5人に増えていた。 「どうにもこうにも、しょうがない」と、奥田さんは日本にいる父親に送金を頼んだ。「3年すれば故郷に錦を飾る」との思いで日本を出てきた奥田さんにとっては、断腸の思いだったに違いない。しかし、生活は苦しさを増すばかりで、送金してもらわざるを得なかった。当時は送金してもらっても、サンパウロのブラジル銀行でなければ金を受け取れない。サンパウロに行く旅費までも借金した。 送金を受け取り、65年にようやくの思いでドゥラードスに戻った奥田さんは、日本食品店を開店した。同地でちょうど豆腐づくりをしていた日本人が辞め、その人に大豆を引く臼(うす)を分けてもらい、「後は無い」と必死の思いで見よう見真似ながら豆腐づくりを覚えた。日々のコツコツとした積み重ねが、生活を少しずつ安定させていった。 「自分の人生は成功できず諦めた。しかし、子供たちには徹底して勉強をさせたかった」(奥田さん) 両親の苦労した姿を見続けてきた子供たちのうち、2人は大学を出て建築家と歯科医になり、1人は家業の日本食品店を継いでくれた。 「子供たちも悪い方向に進まず、素直に育ってくれた。これまでの苦しさを考えたら、これからはもう何があっても恐いことはありません」と語る奥田さん。「今になって、ようやく落ち着きました」と、和やかな表情を見せていた。(2020年7月号掲載。2003年8月取材、年齢は当時のもの)
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