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マツモトコージ苑
     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2025/03/31)
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山下博美さん (2025/03/31)
2020年8月号山下博美さん.JPG
第2次世界大戦後、ブラジルの日系社会では情報不足から日本の戦勝を信じてやまない「勝ち組」派と、敗戦を認識していた「負け組」派との間で約10年に及ぶ「勝ち負け抗争」が発生した。山下博美(ひろみ)さん(83、三重県出身)は皇国崇拝の気持ちから、「決行員」と称して1946年4月1日の野村忠三郎(ちゅうざぶろう)氏と、同年6月2日の脇山甚作(じんさく)元陸軍大佐の両射殺事件に関与した。
 45年8月、サンパウロ州奥地で終戦を迎えたが、敗戦を認める気持ちにはなれなかった。それどころか、ブラジルに住む日本人の一部に皇国を誹謗(ひぼう)する者がおり、山下さんにとっては決して許せない存在だったという。
 45年10月に日本の外務省がスイスを経由して英文で打電した「終戦の詔勅」が日系社会に送られ、敗戦の事実を伝えて混乱を鎮めようとする主旨の集会で「詔勅」を奉読したのが野村忠三郎氏だった。その後、当時の日系社会の指導者たち7人の署名をもとに「終戦事情伝達趣意書」が作られたが、英文での「詔勅」を敵側の仕業と思い込んだ山下さんたちは、グループに分かれて趣意書に署名した人物を標的として「決行」することを決意した。
 サンパウロ州奥地から同志10人が集まり、山下さんのグループ5人はそれぞれに拳銃を携帯して野村氏が住むサンパウロ市ジャバクアラ区の自宅に侵入。野村氏と思われる人物に向かって5人全員が引鉄(ひきがね)を絞りこんだ。野村氏は即死だったが、山下さんの拳銃は不発で、5人はバラバラになって逃走。山下さんは運良く逃げ切ったが、他の4人はその後すぐに逮捕された。
 山下さんはスザノ市在住の日本人のもとに匿(かくま)われた後、その2か月後には逮捕されずに残った他のメンバー4人とともに、今度は脇山氏に狙いを定めた。脇山氏が住んでいたサンパウロ市ボスケ・ダ・サウーデ区に向かった4人は、決行後は自首する覚悟で、家の正面から堂々と扉を叩いた。脇山氏の孫たちが客と思って扉を開け、4人は家人から応接間に通された。脇山氏から「座れ」と促されたが、メンバーは立ったまま自決勧告書と短刀を手渡し自決を迫った。脇山氏が「自分はもう齢だし、そんな気力はない」と言ったところ、メンバーの2人が計3発を発砲し、脇山氏は絶命。この時、山下さんは拳銃を持っておらず、「(脇山氏の)家族が騒いだ時に押えるのが自分の役目だった。決して他の家族に被害がおよぶことはさせなかったが、後から思えば、あれほど大きな騒ぎになるとは思わなかった」という。
 実行後、4人はセントロ区の警察に自首した。カーザ・デ・デテンソン(未決囚留置所)を経て数か所の警察を回され、DOPS(社会政治保安部)の取り調べを受けた山下さんたちは、拷問は受けなかったものの執拗に「誰に命令されたのか」と詰問されたという。「自分は当時21歳と若かったが、誰の命令を受けた訳でもなく、自分の信念で行動した。しかし、そのことを信じてはくれなかった」。DOPSは山下さんたちの事件を、当時の「勝ち組」組織の一つだった「臣道(しんどう)連盟」の仕業だと疑っていた。しかし、山下さんは臣道連盟が存在する噂は伝え聞いていたものの、その詳細内容についてはほとんど知らなかったという。同年7月、約80人の囚人とともにウバツーバ沖のアンシェッタ島へと護送された山下さんは、約1年間を島で過ごした後、サンパウロ市内の未決囚留置所に戻された。
 裁判で31年8か月の刑を言い渡された山下さんだが、刑務所に移送されることなく、留置所内で病理検査の仕事をさせられることになった。結局、予審を入れて15年間拘置されていた山下さんは、61年に仮出所の身となった。その後、留置所で覚えた技術を生かし、ブラジル人医師の協力も得て臨床病理検査師として働いてきた。
 「自分たちは決して人を殺したいのではなかった。どこまでも日本人として、その頃の風潮が許せなかった。しかし、その気持ちを(世間は)分かってはくれなかった」。山下さんは時代の波に流されながらも、当時の「日本人」としての思いを持ち続けている。(2020年8月号掲載。故人、2008年8月取材、年齢は当時のもの)


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松本浩治 :  
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