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マツモトコージ苑
     1999年  (最終更新日 : 2024/05/28)
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チリの日系人社会 (2024/05/28)
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チリの首都サンチャゴから
見えるアンデス山脈
 南米の中では比較的経済状況が安定しているチリ。現在は同国産のワインや鮭(サケ)が日本にも輸出されるなど豊かな自然を利用した生産品が多いことでも有名だ。同国に在住する日本人は、ほとんどがペルーなど隣国からの流入者で、その数は現在約三千人と少ない。しかし、その分団結力は強く一昨年(1997年)の日智修好百周年では官民一体となった協力により成功を収め、国内でも日本人に対する評価は高い。二世主体の日本人会は、今後の後継者問題など課題も多いが、歴史の掘り起こし作業に向けて動きはじめた。チリの日系人社会の動向を紹介する。

(1)

 一九五四年に正式な公益法人として認可されたチリ日本人会(常川マリオ会長)。戦前に在外公館の勧めにより日本人会が組織されたが、戦局が拡大するにつれ、駐在員や一部の移住者は日本への帰国を余儀なくされ、会自体も五三年に戦後初の公使が着任するまで閉鎖された。
 八九年に大阪万博基金や日智商工会議所などの協力により、念願の文化会館を落成。会員は約百六十人と少ないが、「大正会」「昭和会」など年齢別に分けられた会ごとにイベントが実施されるほか、会同士の結びつきは強い。また九七年八月の日智修好百周年事業では、日本人会をはじめ、大使館、商工会議所など官民一体となった協力で一大イベントを成功させたことは記憶に新しい。
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常川マリオ会長
 常川会長の説明によると、日本人会の運営は現在、二世世代が主体となり、定例会議などは常にスペイン語が用いられ、日本語は一切使用されないという。
 ブラジルなどのように政府間の移民政策の取り決めがなかったチリでは、日本人はペルーへの契約移民できた人々の一部が当時の硝石(しょうせき)景気で沸くチリ北部に移住し、しだいに南下してきた経緯がある。そのため一世の時代から現地への同化はやむを得ず、日本人女性が少なかったこともあり、日本語が定着できないのは歴史上の事態から仕方のないことだと常川会長は語る。
 当時の日本人は手に職が無ければ食べてはいけない状態で、職業もいきおい、理髪店などの技術職が多かった。しかし、一方で子弟教育には力を入れ、戦前に日本で勉強させるために幼い子供たちを親元から離れさせる家庭もあったようだ。
 常川会長も五歳から十四歳までの九年間を日本で過ごし、日本人会の中でも日本語を流暢に話せる数少ないうちの一人となっている。
 「チリに日本人が来た当時は日本の女性も少なく、家庭で日本語が話されなかったというのが、一番の大きな問題だったと思います。昨年(1998年)八月にサンチャゴ市内で行われた第四回チリ日系人大会でも日本の文化、言葉についての議題が挙がりましたが、現状の問題として普及するのは難しいとの答えが多く出されました」(常川会長)
 また、ブラジル同様、日系社会での若手リーダーの育成が課題となっているが、「三世、四世になると頭から日本人会に行ってもメリットがないと決めつけている」(常川会長)というように、今後いかに興味付けを行うかが、大きなテーマになっている。
 それと並行して日本人会では、チリ日本人の歴史の掘り起こし作業も進められているが、残り少ない一世世代からの聞き取りなど、その作業は大変な労力を必要としている。
 「日本人に関する英語の資料はあっても、スペイン語で記されたものがなく、今のうちに何とかこれまでの歴史を残していかなければ」と常川会長はその重要性を強調する。
 さらに今年(1999年)七月にはチリで初めてのパン・アメリカン日系人大会が開催され、現在その準備が運営委員会によって進められている。
 「日本人会としてもその成功を期待するとともに、小規模ながらもこの地で頑張っていることを世界の日系人に知ってもらいたいと思っています」と常川会長は、各国の日系社会が直面している大きな問題に一つ一つ取り組んでいく姿勢を示している。

(2)

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在チリ日本国大使館の外観
 日本からの企業駐在員を含めて約三千人と言われるチリ在住の日本人および日系人だが、ブラジルに比べて総体数が少ないことは前項でも書いた。しかし、在チリ日本国大使館で取り扱われている仕事は邦人保護をはじめ警備、戸籍・国籍、査証などの業務のほか、在外選挙権行使のための在留届けの提出確認など少ない人員でやるべき仕事が多いのも事実だ。またチリ国内の治安についても、南米の中では比較的安全だと言われているものの、犯罪発生件数は年々増加の傾向にあるという。ここでは、同大使館領事部の松田芳宏領事に各業務の状況について話を聞いてみた。
 まず、早ければ二〇〇〇年の国政選挙から行使される在外邦人の選挙権だが、当然ながらチリ国内に在住する日本国籍保有者にも適応される。サンパウロなどに比べて対象者の総体数が少ないことから在留届けなどの必要提出書類は大使館側の日本人会、商工会議所を通じての広報活動により百パーセントとまではいかないものの、その整備はかなり円滑に行われているようだ。
 在チリ日本国大使館の調べによると、チリ在住日本国籍保有者(二重国籍者を含む)の登録者数は約千二百人。大別すると四百人が永住者、残りの八百人が日本企業駐在員などの長期滞在者となり、未成年を除くと、約千人が実際の選挙行使者になるという。
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サンチャゴの街並み
 このため投票は首都のサンチャゴ周辺の地域に在住する日本国籍者については大使館で直接行われ、それ以外の遠隔地域は郵便投票と、併用して実施されることがすでに決まっている。ただ、在外選挙に対する見方は企業駐在員はまだしも、永住者にとっては「あまり興味がない」という意見がもっぱらのようだ。
 次に査証の取得状況だが、日本での就労を目的とした日系人の査証の取得はほとんどなく、チリ人への一般観光査証を含めると、一日二件程度で一ヵ月で六十件にも満たないという。
 邦人保護関係については、松田領事が着任した九六年当時に観光中の日本人が賊に刺されたり、交通事故で日本に緊急移送されたケースが発生しているが、それ以降は幸いにも日本人がからんだ大きな事件は起きていない。
 しかし、最近では拳銃を使用した強盗事件が多発しており、中南米では比較的治安が良いとされているチリ国内においても個々人での安全対策を大使館側では呼びかけている。
 「地元の新聞では、サンチャゴ市内で発生する事件の七五%は拳銃所持に関連したもので、三日に一件は発砲事件が起きています。最近では、我々の広報活動が効を奏して日本人に関連する大事件は起こっていませんが、犯罪に巻き込まれないように絶えず注意を呼びかけています」(松田領事)
 また、同領事部が作成した「治安・防犯の手引き」によるとチリ国内にはFPMR(マヌエル・ロドリゲス愛国戦線)、MIR(左翼革命運動)などの主要なテロ組織が暗躍しているという。
 現在のところテロ組織による大きな事件は起こっていないが、九六年十二月に発生したペルー日本大使館公邸人質事件直後の同月三十日にはサンチャゴ市内の刑務所からFPMRの幹部を含む四人のメンバーがヘリコプターで脱獄、逃走中とのことから、組織再編のための資金獲得のために邦人が狙われる可能性もあるとして大使館では更なる注意を喚起している。

(3)

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吉田会頭
 「九七年まではチリ国内の経済は右肩上がりでしたが、一昨年(97年)のアジア経済危機が景気後退の原因となる大きな影響を与えました」ーー。こう語るのは東京三菱銀行サンチャゴ支店長で日智商工会議所の吉田頼且会頭だ。
 南北に細長く伸びる国土から産出される豊富な天然資源と水産物の輸出により外貨を稼ぎ、アジア諸国などからの輸入品により、チリは近年、中南米諸国の中でも比較的裕福な国として見られてきた。
 しかし九七年末に起こったアジア経済危機の影響により、右肩上がりの経済成長にブレーキをかけ、昨年度はマイナスとなり、九九年度の上半期も実質成長率はマイナスか良くても〇%になると予想されている。
 「チリ国内資本の会社では、確かに体力のない小規模なところは倒産しているのも事実です」と吉田会頭はアジア経済危機の影響が近年になく、チリ国内の経済力を低下させていることを指摘する。 
 ただ、チリは現在メルコスール(南米南部共同市場)の準加盟国だが、メルコスール以外との二国間協定の結びつきが強く、一般輸入関税が一一%と低いほか、北部イキケのフリーゾーンを通じてペルー、ボリビアから家電製品、またメキシコからは日本車が無税で入ってきている。
 「ブラジルのマーケットに比べると、ここは十分の一の経済規模ですが、自動車などは百パーセント輸入でトヨタ、日産をはじめ各社が入っており最近では韓国社製品もシェアを伸ばしています。それにブラジルよりも国の法律が一定しているほか、チリの大蔵省が統括する銀行監督局という機関があり、銀行の内容が明確にされているのは我々にとっては仕事がやりやすいのです」
 また、南部では日本進出企業が鮭の養殖を手がけており、高級品は日本の寿司ネタ用として輸出されている。
 「チリの一般関税は一一%で、昨年(98年)の法案通過で今後毎年一%、最終的に六%まで下げる予定です。ただ、安くて良い品物を入れようとする方針があり、競争は厳しいのが現状です」
 吉田会頭によるとチリからの重要な輸出国先はアメリカ、日本、イギリス、ブラジル、アルゼンチンの順で、比率ではアメリカの一七%(二十六億ドル)に対してブラジル向けは五%(七億八千万ドル)と三分の一に満たないという。
 つまり、ブラジルの今回のレアル切り下げ(99年当時)についても、輸出先が欧米中心のチリの経済にとっては現在のところ大きな影響はないようだが、それでも吉田会頭は「為替切下げの中で金利を上げすぎるとブラジル国内の経済が回らなくなり、間接的な影響が出てくる可能性もある」と慎重な見方をしている。
 十二月には大統領選挙も控えており、今年六年目を迎えるフレイ政権後の新政権に期待する声もある反面、現在の次期大統領有力候補が企業家に馴染みが薄いことなど日本からの企業駐在員にとっても大統領選は注目すべきビッグイベントとなっている。
 「今年は経済成長は芳しくなくても、大幅なリセッション(景気後退)はないと思います。政治も極端に悪くならない限り、経済もそれほど悪くならないのでは。過去の経験を生かして今の時代の波を乗り越えていこうというのが、我々日智商工会議所の考えです」

(4)

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三谷徹さん
 開店して七年と歴史は浅いが、日本語のできるスタッフを揃え、チリ在住の日本企業駐在員はもちろん昨年(98年)はブラジル日本商工会議所の産業視察旅行も取り扱ったという三谷トラベルサービス。
 社長の三谷徹さん(五七、鳥取県出身)は一九六九年、当時のガイゼル大統領の時代から九年間、日本の大手スーパーマーケットの派遣社員としてブラジルに滞在した経験を持つ。
 地元のチリ人よりも客層は企業駐在員が多いという三谷トラベルでは、旅行業はもちろん、不動産、引越し業務などの多角経営も行っており、そのことが本来の旅行業務にも跳ね返ってくると三谷さん。
 アジア経済危機の影響による国内の景気の後退で、旅行業界全体の取り扱い数が落ちているのも事実だが、個人的には一昨年(97年)の日智修好百周年が契機となり、日本からのテレビ取材班やワイン調査団などインバウンド業務(地上手配業務)は逆に増えているという。
 「今まではタヒチ島に足を伸ばす人はいても、チリからイースター島に行く人は少なかった。それとともに、これからの狙い目はパタゴニア地域を含めた南極で、アルゼンチン、チリの両国の観光資源を含めた南部全域を紹介したいと思っています」と三谷さんは国別にとらわれないパタゴニアの魅力を口にする。
 「例えば、奇岩で有名なトーレ・デ・パイネから車で四時間のところにペリット・モレノというアルゼンチン側の観光地があるのですが、どの観光文献を見ても載っていません。つまり、チリならチリ側だけといった観光コースだけしか紹介されておらず、今後は観光資源を中心に考えたツアーでないといけません」
 その意味では海外からの旅行者はパタゴニア南部に関する細かい情報にうとく、三谷トラベルではそれらの情報を海外に在住する日本人および日系人をターゲットにホームページ上での紹介も行っているという。
 「私たちの旅行社はチリでは後発組で、先発の旅行社よりもさらに研究していかなければ、市場に組み込んでいくことは難しいのです」
 特にチリは南北に細長い国の観光資源を利用してヨーロッパなどからのスキー客も多い。また、チリ国内でも首都のサンチャゴから約一時間ほどの場所のスキー場があり、ホテルに泊まらなくても通いで滑れるコースがチリ人だけでなく日本企業駐在員にも受けているようだ。
 中南米でも治安が比較的安定していることが、JTBなど日本の大手旅行社が直接観光資源を視察しに来る大きな要素ともなっている。
 「旅行者層は大きく学生と壮年層に分かれますが、最近ではフリーターなどの個人旅行者や小グループのほか、駐在員が日本の三月の冬休みを利用して中、高校生の子供さんを呼んだりするケースも多いようです」と三谷さんはチリだけでなく中南米全体の観光資源が今後注目されることを期待する。
 「私どもでは日本語により世界の日系人、日本人市場を相手に仕事を進めていきたいと思っています」
 三谷さんの世界の日本人にかける思いは強い。

(5) 

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常川勇久さん
 現在、父親の遺志を受け継いでチリ日本人社会の歴史の掘り起こし作業を行っている常川勇久さん(六八、二世)。チリで生まれたが、親の勧めで弟のマリオさんとともに戦前、日本に九年間住んだ。そのために現在でもスペイン語はもちろん日本語には不自由していない。
 一九八五年に他界した父・久太郎さんが経営していた写真スタジオで働くかたわら、日本からのテレビ取材班などのコーディネーター役としても高い評価を受けている。
 「小学生の時から歴史が嫌いで、今やっている父親が残した資料の整理もなかなか進まない。僕は日本語ノイローゼなんや」と話す勇久さんだがその背景には、日本で暮らした辛い思い出が今も尾を引いているようだ。
 「日本では滋賀県の新旭(現・今津)というところにいたけども、中学生時代にはアメリカ生まれということで敵国扱いされ、相当に殴られた。日本から見るとチリもアメリカも一緒やからね」
 その後、大阪に出て写真の勉強を始めた。 
 チリには一九四九年、勇久さんが十九歳になった時に帰国。父親の手伝いのため、写真スタジオで働いた。そこで働く久太郎さんの姿、また訪ねてくる数多くの人々に接する姿を見ていた勇久さんは、否応なしに父に対する興味を抱くようになった。
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サンチャゴの街並み
 チリの日本人の歴史は現在でもあまり知られていないが、当時の先駆者の中心人物としての久太郎さんの存在は大きかった。勇久さんが調べたところによると、久太郎さんは富山県高岡市に生まれたが、結婚して長野県の小諸市に移住。漆器類の販売のため柳行李を持たされ、遠くは当時の日本領土だったカムチャツカまで行くこともあったという。
 徴兵を免れるということもあったが、久太郎さんは南米に行かないかとの誘いを受け、一九一九年に日本を出発。バルパライソ港からチリへと入国した。 
 「後から聞いた話では、父は南米と南洋を間違えたようで、さらにドルとペソを間違え、『チリに行けば金になる』と思っとったようやね」と勇久さんはそのいきさつを話してくれた。
 久太郎さんは第二次大戦中、当時の在ワシントン日本国大使だった来栖三郎氏の夫人と懇意にしていた写真家の懸川南陽氏の弟子となり、大使館関係者の写真を撮りまくった。その後独立した久太郎さんは、チリの日本大使館関係者や商社などのつながりができ、その人間性が人を呼び、「チリに行けば常川に会いにいけば、何でも分かる」と言われるまでになった。
 実際、久太郎さんが八十八歳で亡くなった一九八五年までチリに来た日本人のほとんどが写真館を訪れ、日本政府関係者をはじめ、取材スタッフや芸能人にいたるまで久太郎さんが用意したノートに記念の言葉がびっしりと記述されてある。
 現在は長男の勇久さんが父親の残した当時の日本人会に関するテープやメモ書きを五、六年前から書き起こし、後世に残すという地道な作業を続けている。九七年の日智修好百周年の一環として勇久さんが起こした日本人会発足のいきさつなどのデータを商工会議所が毎月発刊している機関誌の中で数回にわたって掲載したが、「父が吹き込んだテープだけでまだ十本以上あり、手紙やメモ書きもダンボールにして二箱分はある」(勇久さん)というように膨大な量におよぶ。
 それでも勇久さんは「名前が分かっているうちに活字に残していかなければならん。またそれをスペイン語に訳して後世に残していかなければ」と考えている。
 チリの一世たちが乗り越えてきた歴史を掘り起こす作業は今も続いている。(おわり)


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