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マツモトコージ苑
     2012年  (最終更新日 : 2024/10/19)
関西のウチナーンチュ [全画像を表示]

関西のウチナーンチュ (2024/10/09)  今年(2012年)、沖縄の日本本土復帰40周年の節目の年を迎え、母県沖縄のみならず国内外に幅広く「琉僑(りゅうきょう)」とも言えるネットワークを構築しているウチナーンチュ(沖縄県人及び県系人)の人々。昨年(11年)10月に母県で開催された「第5回世界のウチナーンチュ大会」では各国の人々が一堂に会し、交流を深めたことは記憶に新しい。日本の関西地域には、大阪沖縄県人会連合会(大阪市大正区、嘉手川重義会長)があり、同地域の県人会員を統括している。同連合会を中心に、関西で活動する人々に焦点を当てる。
 
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4階建ての大阪沖縄会館
 JR大阪環状線の大正駅を下車、「鶴町4丁目」方面の大阪市内バスに乗車して六つ目の停車場にある大正区役所。同区役所前交差点を隔てて反対側の道路を2ブロックほど南に歩くと、「大阪沖縄会館」と書かれた大阪沖縄県人会連合会の4階建てビルが見えてきた。
 同会館2階の事務室で応対してくれた名幸祥夫(なこう・よしお)事務局長(70)は、大阪で生まれた「沖縄県人2世」。長年、大阪市地下鉄の運営管理の仕事に就いていた。現在、ボランティアで連合会事務局長を務めており、「2年前までは(連合会傘下の)都島地区沖縄県人会長もやってたんやけどね」と流ちょうな大阪弁を話しながら気さくに答えてくれた。
 同連合会は戦後間もない1946年4月に創立され、昨年(11年)65周年記念イベントが大々的に開催されたという。傘下団体は大正区をはじめ、西成区、住之江区、港区、此花区、北区、都島区、中央区、西淀川区、堺の10地区の県人会と「在阪支社懇話会」の11支部から構成されている。
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会館1階入り口左側
に建つ宮城氏の銅像
 また、同連合会以外に兵庫、京都、奈良県などの関西地域にも県人会組織があり、その数は「把握しきれていない」(名幸事務局長)ほどだ。
 連合会が所持する資料によると、沖縄県人は明治時代からハワイやブラジルなど海外に移住しているが、大阪に初めて県人が来たのは大正初期(1910年代)だという。その頃、木材(製材業)、鉄工業、紡績業などの工員に従事する人や自由労働者も多かった。当時の港区(現・大正区)には製材工が数多く、特に現在の連合会館にほど近い北恩加島(きたおかじま)町には、その頃の全人口の5分の2を沖縄県人が占めていたそうだ。
 大阪の工業、商業、経済界の中で各種業務に従事する人がいる一方、独立経営する人たちも増えていった。そうした中、沖縄の人たちを支えたのは各地区に住む県人の連帯感と、県人同士による「頼母子講(たのもしこう)」だった。
 戦時色が濃くなり、大阪在住の県人の家長たちの多くが徴兵。その留守家族救済のため各地区の県人会が最大限の努力を行ってきた。しかし、45年3月と6月に大阪は大空襲に見舞われ、県人出身者たちは米軍による地上戦で焦土と化した故郷・沖縄に帰ることもできず、戦後各地区の県人会を中心に団結していくようになった。
 こうして翌46年、全国的に沖縄県人連盟結成の動きが広まり、同年4月には大阪市中之島中央公会堂に各地区県人会役員や会員約3千人が集結。協議した結果、「南西諸島連盟」を結成し、「沖縄人連盟関西本部」「沖縄人連盟大阪本部」と改称を経て、52年5月に現在の「大阪沖縄県人会連合会」に決定された。

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沖縄代表高校の記念品
と名幸事務局長
 大阪沖縄県人会連合会の拠点である4階建ての会館が建設されたのは、1974年4月。前年の73年9月に着工し、沖縄県をはじめ大阪府、大阪市も資金援助を行い、当時の金額で約1億3500万円もの建設費用がかかっている。
 同会館には2階の連合会事務所をはじめ、大正区沖縄県人会事務室、沖縄県系酒販会社及び民芸品店、琉球舞踊教室などのほか、テナントを第三者に賃貸している。1階入り口の左側には、第二代大阪沖縄県人連合会会長、大正区沖縄県人会長や(財)大阪沖縄協会理事長などを歴任し、同地域の発展に尽力した故・宮城清市氏の銅像も建立されている。
 名幸事務局長の話では、連合会の活動は2月の新年会に始まり、6月の総会、7月第2日曜にこれまでは和歌山県高野山にある「沖縄戦戦没者高野山供養塔」への参拝が実施されてきた。しかし、近年になって県人高齢者が減少し、若い世代が参拝を行わない傾向にあり、「高野山とのつながりが切れた形」(名幸事務局長)となり、各人が個人的に先祖への供養を行っているという。
 そのほか、大切な行事として阪神甲子園球場で春と夏に開催される全国高校野球大会の沖縄県代表を応援しにいくことがある。「大正地区からはバス2台で応援しに行きます」と名幸事務局長。事務所内には、2010年に春夏連覇を成し遂げた興南高校の記念ボールをはじめ、宜野座高校、嘉手納高校といった歴代出場高校の記念プレート(皿)などが所狭しと飾られていた。
 さらに、連合会の行事ではないが、大正区とタイアップし青年を対象としたエイサー祭りが毎年9月、連合会館から道路を隔てて真向かいにある千島公園で開催されている。 
 特に今年は、沖縄の日本本土復帰40周年と大正区区制80周年を記念しての「大綱曳き」も予定されている。大正区も同地の沖縄県人のイベントには積極的に協力しており、筋原(すじはら)章博大正区長自ら昨年10月の第5回世界のウチナーンチュ大会に参加したほどの熱の入れようだという。
 連合会の問題点について名幸事務局長に質問すると、ブラジルの日系団体と同じように会員の高齢化を指摘した。「大正区の会員はまだ沖縄1世の血が濃いが、堺など他の地区にはナイチャー(沖縄県人以外の県人)の会員もいる。もっと若い人を取り込むために今年からホームページの充実などインターネット設備を整え、各種データを記録していきたい」と名幸事務局長は今後の抱負を語った。

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大阪市住吉区の
自社ビルでの仲里さん
 WUB(ワールドワイド・ウチナーンチュ・ビジネス)関西支部の会長を務める仲里眞光さん(67)。2008年8月にジアデーマ市の沖縄文化センターで開催された「沖縄県人移民100周年記念式典」に関西の沖縄県人を代表して来伯した経験を持つ。
 現在、大阪市住吉区(JR阪和線杉本町駅近く)に自社の建設会社ビルを所有するほか、今年1月には沖縄県(本社)と福岡県(支社)に「(株)ゼロテクノ沖縄」という新会社も立ち上げた。
 WUBは、沖縄移民の発祥の地と言われるハワイの仲宗根ロバート氏の発案により、世界各国に居住するウチナーンチュたちがネットワークを形成し、互いにビジネス展開を行うことを目的に1997年9月に創設。WUB関西支部は同ネットワーク10番目の拠点として、2000年に設立された。
 仲里さんは設立当初から会長を務め、大阪府出身の紀美子夫人(70)の協力を得て、2年前まで自身の建設会社の事務所をWUBの事務所として兼用してきた。
 現在、WUB関西支部には約20社が会員登録し、沖縄県産品の売買などビジネス交流を行っている。そのほか、毎月第3木曜に定例会を開いており、会員企業は沖縄系以外に地元大阪の企業も参加している。
 さらに、「泡盛同好会」も並行して行い、年に2回約200人の会員が集まる。同好会には沖縄系の酒販関係者も参加し、新製品紹介など関西地域での広報活動を実践している。

   ◎   ◎

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沖縄移民100周年前夜祭パレード
で行進する仲里さん
(前列右から2人目)
 沖縄県南城市佐敷町で生まれた仲里さんは、生後すぐに沖縄戦の戦禍を逃れるため北部の名護市汀間(ていま)に移動し、家族と隠れていたところを米軍に保護されたという。
 小中学校時代は宜野湾市で育ったが、中学を卒業後16歳で岡山県倉敷市の紡績会社が募集していたのを知り、同市へ。その後、大阪府にいた先輩のつてを頼って大阪市阿倍野区の電気屋で働いたが、家族から反対され沖縄に戻ることに。故郷に戻ってみたものの仕事のあてもなく、米軍基地で米兵の衣服の洗濯や靴磨きなどを行う軍作業をしてしのいだ。
 18歳の時、当時の琉球漁業が大洋漁業に買収されたことを受け、仲里さんは底引き網漁船に乗ることを夢見て、同社の研修生として長崎県に渡った。しかしその頃の日本は、東京オリンピック開催による高度経済成長の気運が盛り上がりつつあった時代。「漁師は気も荒いし、1か月以上も沖に出なければならない。陸にいて人並みに仕事をしたいと思った」という仲里さんは、64年に単身大阪に出て左官工の見習いとなった。
 20歳で紀美子夫人と結婚。23歳で独立し、現在の「仲里建設株式会社」を創設させた。72年の沖縄本土返還前後に沖縄から若い人々を呼び寄せ、「10年ごとに会社を大きくしていった」仲里さん。WUB関西支部の会長を続けてきたことについて、「自分は(高等)学校を出ていないが、WUBのお陰で大手の会社や大阪府庁関係者など様々な人たちと会うことができた。若い時から『夢は世界へ』という思いがあり、まじめに生きてさえいれば夢が広がることが分かった」と語る。
 今後、WUB関西支部会長などを後進に譲っていく考えだとしながら仲里さんは、「これまで沖縄への恩返しのつもりで何でもやってきたが、これからも世界の人々とのつながりは大切にしていきたい」とウチナーンチュとしての熱い思いをのぞかせた。

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2012年1月に大阪梅田で開催された
「沖縄ナイト」にも出席した上江洲さん
 大阪滞在中に偶然、再会することになったのが、10年ほど前までブラジル・サンパウロ新聞の通信員をしていた上江洲(うえず)清さん(73)だ。WUB関西支部会長の仲里眞光さん(67)を取材中、仲里さんが関西地域の沖縄県人会のメンバーとして上江洲さんに連絡を取ったことがきっかけだった。
 現在、滋賀県湖南市に在住し、自ら体験した「沖縄戦」やブラジル日本移民の思いを「語り部」として伝える活動を行っている。  
 南洋諸島の一つテニアン島で生まれた上江洲さんは、6歳の時に「沖縄戦」を体験。高校卒業後の1958年に家族と渡伯し、「カッペン移民」としてマット・グロッソ州に入植、過酷な労働を強いられてきた。その後、南北アメリカなどを転々とし、サンパウロ新聞通信員、琉球新報のブラジル通信員を務めた後、2002年に沖縄本土復帰30周年記念イベントのコーディネーター役として沖縄県を訪問した。
 当初はすぐにブラジルに戻る予定だったが、日系就労者の多い群馬県大泉町に足を運び、「出稼ぎ」の状況を実体験した。上江洲さんは当時60代半ば。建設会社に面接に行ったが「仕事などない」と言われ、ある会社の寮に住む日系人たちの「金もなくて出るに出れない状況」を直視した。
 上江洲さん自身も職を転々と変えざるを得ず、ポルトガル語ができたため千葉県では出稼ぎ者たちの通訳の仕事を任された。しかし、その内容は単なる通訳ではなく、長野県や福島県のスキー場に日系人を派遣するための営業活動だった。当初は日系人を雇うスキー場は少なく、やっと雇ってもらう許可を得た長野県のスキー場では、上江洲さん自ら出稼ぎ者たちを引率し、「零下20度の豪雪の中で、雪かきを行う毎日でした」と振り返る。
 その後、シーズンオフにその会社を解雇され、知人のつてを頼って大阪にも出たが、紹介された会社が倒産。生きるために町の清掃車に乗せてもらい、スーパーの期限切れ食品を拾うなど「乞食同然の生活も経験した」(上江洲さん)という。
 さらに、和歌山県で炭焼き作業を紹介されたが、職人気質の雇用主から収入もない上に少ない食料で働かされ、栄養失調になった。仕方なく沖縄県にいた姉に連絡し沖縄に帰ったが、体調が回復するのに3か月もかかった。
 改めて知人の紹介で04年1月に今度は滋賀県湖南市へ行くことになった上江洲さんは、オーナーが日本人で、日系就労者が居住するアパートの管理を任された。リーマン・ショックの影響で居住者の日系人が激減したため、そのアパートは11年11月に取り壊されたが、その間、上江洲さんは06年に伯国に住んでいた夫人(3世)も呼び寄せ、最盛時には50家族いたブラジル人たちの面倒をみた。
 湖南市に住んでいる間、戦争の悲惨さと自身のブラジル日本移民としての体験を訴えるため、地域の小中学校や公民館などで講演を行うようになり、「語り部」としてこの7年間で40回にも及ぶ活動を実践している。
 10年間にわたって日系就労者の状況を間近に見てきた上江洲さんは「日系就労者といってもひと昔前と違い、非日系人が多いのに驚く。世代が下るに従い、日系人としての意識やブラジル人としての誇りも低くなっている。それに、仕事に就かなくても失業保険や生活保護が受けられることに甘んじて、ブラシルへ帰りたがらない『デカセギ』が増えているのも事実で、その中には高齢者が多いのも気がかりだ」と、これから先のことを気遣う。
 各地での講演活動を続ける上江洲さんは「私は、いわば『よそ者』かもしれないが、関西地域に住む沖縄県人とのつながりを持ち続け、自分がたどってきた人生体験を日本で書き残していきたい」と強調した。(おわり、2012年2月)


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