ペルー移民の宮下米吉さん (2024/10/19)
【鹿児島発・松本浩治記者】中学生時代の旧友とその家族に会うため十数年ぶりに訪問した鹿児島県南さつま市(旧・日置郡)で、戦前ペルーに移住していた日本移民についての話を聞く機会に恵まれた。この日本人の名前は宮下米吉さん(故人)。1920年代初旬頃から二十数年にわたってペルーの首都リマ市に住んだ後、終戦翌年の46年に日本に戻り、鹿児島県で余生を過ごしたという。宮下さんの親戚に当たり、南さつま市に住む泊良光(とまり・よしみつ)さん(79)の自宅で、リマの日系団体など宮下さんが活動していた当時の写真を見せてもらった。
宮下さんは20年代初旬に単身ペルーに渡り、41年に第2次世界大戦が勃発した後、宮下さんらペルーにいた日本人及び日系人たちは敵性外国人として北米の強制収容所に送られたとみられる。しかし、当時のことについて泊さんは生前の宮下さんから詳しくは聞いておらず、宮下さんが何の目的でペルーに渡り、リマ市内で何の仕事をしていたのかなどは分からないという。 その後、宮下さんは終戦後の46年に収容されていたアメリカから直接日本に帰国したとみられ、郷里の鹿児島県に戻り、地元の田布施(たぶせ、現・金峰町)郵便局で保険の外交員として働いた。 一方、大阪府生まれの泊さんは、戦時中に縁故疎開で11歳の時から5年間、当時の鹿児島県日置郡で過ごした経験を持つ。その間、父親の妹の婿だった宮下さんにも世話になったが、16歳で関西方面に出て理容師としての修行を積み、大阪府堺市内で45年にわたって理髪業を営んできた。 宮下さんの死後、鹿児島の家は親戚が住んだ後に第三者に賃貸していたが、「先祖の墓守」を目的に泊さんは99年、半世紀ぶりに鹿児島県日置郡へと移り住んだ。その際、泊さんは宮下さんが日本に持ち帰った長持(ながもち)とともに、先祖の仏壇の下から戦前のペルーの写真を発見した。 泊さんの手元にある「六つ切」ほどの大きさの写真は12枚で、20年代にリマ市の写真館で撮影された「里馬(りま)日本人小学校建築資金後援慈善演芸大会」「中央市場日本人商業組合定期総会」「在秘剣舞会」などと記された当時の様子が見てとれる。 泊さんは生前の宮下さんについて、「ペルーやアメリカから帰ってきたということでプライドがあったんでしょうね。この辺ではその頃、(宮下さんの)ほかに南米に行っていた人はおらず、人に会ったらアメリカの話をしていましたよ。口が達者で外交員の仕事でもナンバーワンの成績だったし、教育熱心でしたね」と回想し、故人を懐かしんでいた。
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