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岡村淳のオフレコ日記
     岡村淳アーカイヴス  (最終更新日 : 2024/02/18)
四宮鉄男監督、岡村淳作品を読む『旅の途中/橋本梧郎と水底の滝・第二部』 [全画像を表示]

四宮鉄男監督、岡村淳作品を読む『旅の途中/橋本梧郎と水底の滝・第二部』 (2023/04/22) 岡村が敬愛する記録映画監督の四宮鉄男さんが、拙作を視聴して書かれたレビューをご本人の快諾をちょうだいして採録します。
四宮さんは林竹二の授業記録『記録・授業-人間について-』や、べてるの家の記録『ベリー オーディナリー ピープル』シリーズなどの秀作を手掛けできました。
これまで四宮さんは藤崎和喜さん主催の「メイシネマ祭」上映作品をほぼ全作ご覧になり、レビューを綴っています。
岡村は四宮さんの監督作品から共感と共に多くを学んでいますが、そのドキュメンタリー評も共鳴すること、教わることが多々あります。
上映機会もまれな拙作について、岡村自身に感動と共に大きな気づきをもたらした批評は決して多くはありません。
小説家の星野智幸さんを嚆矢として編集者の淺野卓夫さんに発表していただいたものが岡村の支えにもなってきましたが、ドキュメンタリー映画実作者である四宮さんの評からは新たに驚くばかりの気づきと支えをいただいています。

折に触れて、写経のつもりで入力していきました。(西暦2023年3月22日開始-4月24日完了)

■2015メイシネマの旅
『旅の途中 橋本梧郎と水底の旅・第二部』
製作・構成・撮影・編集・報告:岡村淳 2014年 71分

ドキュメンタリー映画、記録映画にはいろいろある。
中でも岡村さんの記録映画は特徴的だ。
まず、一人プロダクションでの映画製作である。
製作・構成・撮影・編集・ナレーションのほかに、この橋本梧郎シリーズの場合には、運転手の役割も重大だった。
この映画の冒頭の画面には驚かされた。
左手でハンドルを握りながら、右手でカメラを持ち、バックミラーに映った車内の様子を撮影しながら、そのうえインタビューを続けていくのだった。

もう一つの特徴は、ライブ上映会だ。
自分の映画の上映の場には必ず立ち会われる。
ブラジル在留だから、さぞ大変だろうと想像するのだが、「ひとりでもご覧になりたい方がいればおうかがいする」という方針なのだそうだ。
そして、上映会場での岡村さんのトークがこれまた面白い。
映画より面白いなんて言ったら叱られてしまいそうだが。

三つ目の特徴は、撮影の時期と映画の製作時期との差の大きさだった。
この映画の場合は、2007年に撮影されて、2013年に製作されている。
別の上映会場で貰ったチラシによると、『消えた炭鉱離職者を追って・サンパウロ編』という映画では、なんと1999年に撮影されて2013年に製作されていた。
14年後の完成だ。
きっと、映像が熟成してくるのをじっと待たれているのだろう。
それにしても、なんという熟成期間の長さだろう。

「橋本梧郎」とは静岡の出身で、ブラジルに移住された植物学者だ。
83歳の、現役バリバリの頃に岡村さんは取材で出会い、およそ10年の付き合いだという。
岡村さんは、橋本さんを、先生!先生!と呼びかけ、その先生とのやり取りが映画の流れを構築していく。

岡村さんはこれまでに橋本先生の映画を4本作り、そのうち、『パタゴニア 風に戦ぐ花 橋本梧郎南米博物誌』『ギアナ高地の伝言 橋本梧郎南米博物誌』『南回帰行 橋本梧郎と水底の滝・第一部』の3本を見ているので、橋本先生になんとはなしの親しみを感じていた。
それに、遠慮なしの岡村さんと先生のやり取りのおかげで、とっても偉い先生なのに、ちっとも偉ぶったところがなくて、すてきな人柄を感じさせられてきた。

この日の上映会のために岡村さんご自身が用意された資料から、『橋本梧郎と水底の滝・第一部』に関する部分を引用する。
『ギアナ高地から戻った橋本先生は、古木が枯れていくように心身が衰えていった。そんななか、橋本先生は岡村に折り入っての頼みを切り出した。先生は、巨大ダム建設により水底となった滝へ岡村の運転で連れて言ってもらいたい、と言う。現地側の都合などで水底の滝行きが実行できないなか、岡村は橋本先生を、先生の人生の輝きの地へと案内することを思い立つ。まずは、橋本先生がかつて昭和天皇に献上する粘菌を探し求めた原生林だ。岡村は自動車の運転、撮影、そして先生の介護を行なうことになる。』と。

水底の滝セッチケーダス.jpg
水底に沈んだセッチケーダスの滝の吊り橋
そして、この『旅の途中 橋本梧郎と水底の滝・第二部』なのだ。
映画の冒頭に、轟々と流れ落ちる巨大な滝の映像が挿入されていた。
凄い滝だ。
きっとダムが建設される前の水底の滝なんだろうなあ、とその滝の巨大さと水量の多さに圧倒された。
そこは、ダムが出来る以前は、若き頃の橋本先生の主要な調査フィールドだったそうだ。
それだけに、懐かしさが募るのだろう。
それが、94歳になる橋本先生を水底の滝へと向かわせる原動力となっているんだろうなあと推測する。

第二部は、まさに〝旅の途中"だった。
橋本先生と、橋本先生のお世話をするのが目的で憧れの存在だった橋本先生の妻となったゆきさんと、先生の仕事の助主役の女性と、そして運転手の岡村さんの4人で、旅に出る。

目的地は、水底の滝ではなかった。
愛妻のゆきさんのご両親のお墓参りだった。
その後で、橋本先生のもとにたくさんの標本を送り続けてくれた人の遺族を訪ねてお礼を言いたいというのだ。
サンパウロからおよそ5時間のロングドライブだった。

ゆきさんの両親のお墓参りは無事に済んだ。
でも、ブラジルのお墓の大きさに驚かされた。
石造りの十字架が横に大きく広がっているのだ。
想定外だった。
お墓参りの後、橋本先生のところへ標本を送ってくれた人の遺族を探すのだが、現地の住所表示が代わってしまっていたので、なかなか見つからない。

もういいよ。
もう探さなくていいよ。
もう帰ろう、と橋本先生が言い出す。
でも、他の3人は、折角ここまで来たのだからもっと探そうと引き下がらない。
町をぐるぐる回って日系人を見つけたら尋ねてみようという作戦をとる。
運のいいことに、ほどなく、その遺族の娘さんと知り合いだという女性と道の途中で出っ食わす。

その女性は、親切にその遺族の娘さんのお宅まで案内してくれた。
遺族の娘さんは思いがけない橋本先生の訪問を喜んでくれた。
そして、温かくもてなしてくれた。
やがて、娘さんの夫も家に帰ってきて、会話が弾む。
はるばるサンパウロから5時間も車を飛ばしてやって来た甲斐があった。

その夜の、ホテルのレストランでの食事は盛り上がった。
ワインが出されていたせいもあったかもしれない。
話題の中心は、「もう、探さなくていいから、帰ろう。」と言い出した橋本先生の言動だった。
「ね、諦めないで探したから、良かったでしょう」と、橋本先生を責めたり、からかったり、反省を求めたり、同情したり。

でも、結論は、探しても探しても見つからなくて、みんなが余りにも懸命に探すのが見ていられなくなって、気の毒に思って、「もういいよ」と言い出した橋本先生の思い遣りだった、ということになる。

TABINOTOTYUU橋本流.jpg
おっと書き忘れるところだった。
この食事のシーンがとても印象的だったのだ。
ここではずっとワンポジションで、おしゃべりしながら、テーブルの上の料理を食べながら、ワインを飲みながらの、三人の姿をじっと撮り続けている。
そして、画面の外からは、煽ったり、囃し立てたり、冷やかしたりの岡村さんの声が絶えず聞こえてくる。
どうやって撮影したのだろうか?
映画の上映後、ロビーで岡村さんに尋ねた。
「いやあ、食べながらの撮影ですよ。だって、わたしだけが食べないで撮影していたら、場がしらけるでしょ」という答えだった。
これまた、仰天した。
長い時間、カメラを片手で構えたまま、食べながら、飲みながら、インタビューをしながらの撮影だった。
岡村さんにしか出来ない芸当だった。

サンパウロに戻った橋本先生は一人暮らしだった。
妻のゆきさんが体調を崩して入院してしまったのだ。
岡村さんが1週間に1度くらいの割で訪ねて来て、あれこれと世話を焼く。
岡村さんがいつものように橋本先生を訪ねる。
わたしは、先生が、ワープロでもパソコンでもなく、タイプライターで文章を打っておられるのを見て、びっくりした。

自宅は、ライブラリーであり、標本館であり、植物園だった。
庭のような植物園で緑が輝き、きれいな花がたくさん咲いていた。
岡村さんは、何度もここを訪れながら、ゆっくりとそれらの花を愛でたことがなかったのだそうだ。
そういえば、これまでの映画に、庭の花々が登場したことはなかったなあ、と思い返す。

広いライブラリーは、どっさりの本で埋まっていた。
さっきからずっと先生が本を探している。
だが、なかなか見つからない。
誰かが、支援者の一人が、無断で持ち出したようだ。

100周年を迎える移民祭に、先生は出席しないという。
だって、最初の移民だけが移民じゃないからね、と。
それはそうだとも思う。
ブラジルの日系社会への批判を岡村さんにぶつける。

珍しい植物を探してブラジルに渡ってきて、標本館には10万点とも15万点とも言われる標本が集められている。
大丈夫だ、と先生は言う。
きちんと保存できる状態になっている、と言うのだ。
でも、後継者がいないのを、岡村さんは心配する。
後継者がいないと、折角の標本を活用できない。
そのことを先生に訊いても解決策を見つからない。
誰か、10万点も15万点もの標本を整理してくれる人が出現する幸運を待つしかない。

先生は、余生と言うものを意識されているのだろうか。
もう、これからやりたいことはない、と語る。
その一方で、まだまだ、やり残したことがたくさんある、とも語る。
標本にしても、整理しなくちゃならないことがまだたくさんあるのだそうだ。

妻のゆきさんの退院の知らせが届いた。
ゆきさんを迎えに行く前に、橋本先生は、床屋に向かう。
髪はそんなに伸びていないし、見苦しくもなんともないのに。
そのことを岡村さんが尋ねると、きっぱりと先生は、身だしなみはきちんとしておかないとね、と答えられる。
愛妻のゆきさんと久しぶりに会うのに、身ぎれいにしておかないとならないのだ。

実は、こういうことを長々と書いてもなんの意味もないのだった。
というのは、『旅の途中』という映画にはストーリーらしいストーリーはない。
何も事件は起こらない。
何かをアピールする映画でもない。
これを伝えたいとか、この事実を知ってほしい、という映画でもない。

実は、『旅の途中』という映画は、実に面白い映画だった。
滅茶苦茶、面白かった。
それで、この映画の感想を書く順がくるのをワクワクしながら待っていた。
書きたいことは心の中に充満していたからだ。
ところが、いざ感想を書こうとしたら、その書きたいものが言葉にならなかった。
書きたいものを言葉に変換できなかった。
言葉を探せなかった。

以前にもあった。
『あもーる あもれいら/第一部・イニシエーション』の時もそうだった。
何も無かった。
ブラジル南部の大農園のある地方で、貧しい家の子どもたちを預かる保育園を撮った記録映画だ。
ただ何日間かの保育園での子どもたちの生活を撮っただけだった。
やっぱり、ストーリーも事件も何も無かった。
それでいて、生き生きした、面白い映画になっていた。

岡村さんは、そこに何も無くても、逆に言えば、なんでもかんでも、カメラを回しさえすれば面白い記録映画に仕立て上げてしまう、記録映画のマジシャンみたいな人だ。
もしかしたら、岡村さんの映画は壮大なイリュージョンかもしれない。

もう40年以上も前、元宮城教育大学の学長で哲学者の林竹二先生が、小学校で授業されていて、それを丸ごと撮って『記録・授業ー人間について』という記録映画を作った。
その時、林竹二先生からこんな話を聞いて、今も覚えている。

言葉というのは「事の端(ことのは)であるから、常に実(じつ)の実(み)、すなわち言葉は実体で裏打ちされていなければならない、と言うのだ。
上っ面の言葉を幾ら連ねても人の心を打つことは出来ない、と。

敷衍して、同様のことを映像においても感じる。
映像はことの表面や物の表面しか写さない。
しかし、実体のあるもの、すなわち、事柄の奥の深さを写したものでなければ、見る人に迫って行くことが出来ない。
見る人に何事かを伝えることは出来ない。
岡村さんの映像はそんな映像だと思う。
実体のある映像なのだ。
事柄の奥の深さが写り込んだ映像なのだ。

そして、そういう映像で構成された記録映画だから、どのように構成されても面白いのだ。
わたしは、そういう映像がリアルな映像だと思う。
観念的な映像に対して、リアルな映像なのだ。
そして、リアルな映像は、目の前にある現実からしか立ち上がってこない。

目の前にある現実が映り込んでいるのか、いないのか。
目の前にある現実とは、人の“生きる”である。
生きること ― それは、人が、誰でもが営んでいることなのだ。
橋本先生が偉い植物学者だから、その生きるに価値があるのではない。
橋本先生の生きるとブラジルの保育園の貧しい家庭の子どもたちの、その生きるは等価なのである。

人はみんな“生きる”を課せられている。
同時に、人はみんな“生きる”を行なっている。
人はみんな、笑ったり、泣いたり、苦しんだり、楽しんだりして生きている。
岡村さんの映画は、その“生きる”を丸ごと撮っているので面白いのだ。
丸ごと撮るには、小手先の細工は廃して、ただポン撮るしかない。
ただひたすら撮るしかない。
岡村さんのカメラはいつもただポンと、ただひたすら対象に向けられている。
丸ごと撮るために。

記録映画『旅の途中』には、何も無かった。
まさしく旅の途中だった。
目的地の水底の滝は、ずっとずっと遥かな先にあるようだ。
でも、わたしは、この『旅の途中』というタイトルがとてもすてきだなあ、とてもいいタイトルだなあ、と感じた。

『旅の途中』は水底の滝への旅の途中であるとともに、人生という旅の途中でもあった。
わたしは、94歳にもなられて、いつもなにかを掴み取ろうとされている橋本先生の姿に打たれる。
常に前へ前へと進もうとされている。
もうやりたいことはないと言いながら、あれをしておかなくちゃ、これをやっておかなければと、いろいろ案じていらっしゃる。
94歳になって旅に出るなんて。

94歳の橋本先生は、まだまだ旅の途中なのだ。

わたしは、記録映画『旅の途中』を見ていて、感じるものが大きかった。

わたし自身、75歳になって、人生は終盤というよりも終局に近い。
最近は特にそう感じている。
でも、旅の途中なんだよなあ、と。

 2015年5月22日

          ( 了 )


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