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岡村淳のオフレコ日記
     西暦2016年の日記  (最終更新日 : 2016/12/01)
8月の日記 総集編 記憶喪失

8月の日記 総集編 記憶喪失 (2016/08/02) 8月1日(月)の記 ブラジルのぬかるみに生きて
ブラジルにて


12時間ぐらい寝たか。
臨死体験もなく、生きている。

さあ一日断食して『ブラジルの土に生きて』の世界に再び突入。
三度目のとりなおし、2カ月以上この作業が続いているので、このままずっとこれを続けるのかと思うくらい。
僕の思惑や存在をはるかに超えたいい作品だと思う。

午後、とりあえずのところまでいけた。
機械さん、ありがとう。
そろりそろりとバックアップづくり。

あとは微調整だ。
初回は、それで泥沼に落ちたのだが。


8月2日(火)の記 二十四時間の祈り
ブラジルにて


集中治療室の日々が続いている義父の容体が思わしくないとのことで、妻は友人の勧めを受けて24時間の祈りを呼びかけ始めた。
有志がひとり一時間ずつ、24時間にわたってお祈りするというもの。

カトリックが起源の祈祷法のようだが、お祈りする人の宗派や祈りの形は問わないとのこと。
赤の他人までもさっそく名乗りを上げてくれているのに、娘婿が逃げるわけにもいかない。

本日13時からを受け持つ。
場所も不問だが、せっかくだから祈りの場所へ。
ひと駅先にあるサンジューダス教会へ。

東京でいえば、知名度でいくと目黒不動みたいな所だ。
思えば日本でのお祈りは、神社仏閣で賽銭を投げて10秒も頭を下げて合掌すればおしまいというものだろう。

別料金をはたいて僧侶や神官に祈らせるというのはあるだろうが、ひとりで然るべき時間を祈る場所は祖国にありや。

教祖であるブッダもイエスも、人生の相当な時間を祈祷や瞑想にあてている。
僕は人を人たらしめているものの大きなものが、祈りではないかと思う。

サンジューダス教会ではミサ時間以外でも少なからぬ人たちが訪れ、静かに真摯な祈りを続けている。
さすがに電子端末をいじりながらの祈りは見ない。

仕事と病院から帰ってきた妻には、こういうことは頼むときよりその後の御礼と経過報告が大切だと伝えておく。
すると祈祷に参加してくれた何人もの親類友人知人が、久しぶりに祈りの機会を与えてくれてありがとうと伝えてきたとのこと。

義父の今日の経過は良好の由。


8月3日(水)の記 みたらしのあさ
ブラジルにて


みたらし団子という名称を知ったのは、さほど昔のことではない。
子どもの頃からあの団子には親しみ好んでいたが、アマカラのダンゴぐらいの呼称で、アンコのダンゴと区別していた。
祐天寺駅近くの「越路」や伊勢脇の「大久保団子」あたりが購入先。

さて、ブラジルで知り合った日本からの駐在さんの一家から「白玉粉」なるものをいただき、使ったこともないのでだいぶ長く放置してあった。
小豆を甘く煮て、白玉粉を説明書き通りに作って投入してみると、わが家の女性陣に大好評。
白玉粉とは、モチ米の粉だったのか。

日本から担いでくるにしても重くなるな、と思いつつ、こちらの日本食材店をのぞいてみると…
そこそこの品ぞろえの店には、それらしいのがあるではないか。
「水磨糯粉」と中国語表記だが、なんとタイ産だ。

まずはこれを購入、ウエブサイトで日本語のレシピをながめていて「みたらし団子」もありと知った次第。

ブラジル生まれのわが子らも、日本のマンガの影響で「みたらし団子」を知っている。
本日早朝、家を出る前の子どもにサービスするか。

はじめてのトライで、しかもバタバタとやったため、タレをかきまぜ続けるまでは気も手もまわらず、ランダムに固まってしまい、少し焦がしてしまった。
それでも食べられないことはなく、子らの評価もそこそこ。

ブラジルくんだりで、自らみたらし団子までつくる人生を迎えるとは。


8月4日(木)の記 牛山本到着
ブラジルにて


外出から戻ると日本からのEMS便が届いている。
日本の平凡社からで、差出人の名前に心当たりがない。
わざわざEMSで送って下さるとは?

開けてうれしい、鈴木嘉一さんの『テレビは男子一生の仕事 ドキュメンタリスト牛山純一』の単行本だった。
雑誌『GALAC』連載のものにさらに加筆されたもの。

日本映像記録センター時代の若手ディレクターとして、熊谷博子さんと岡村を取りあげていただいた。
岡村の意をよく汲んでくださり、全体の緻密な取材とともに鈴木さんのご尽力に舌を巻くばかりだ。

「あとがき」では現在の日本のテレビ、特にNHKの劣化についても厳しく言及している。

さて夕方の妻からの連絡。
集中治療室入りの続いている彼女の父の容体がかなり厳しくなった由。
妻は病院と実家の往復を続けるとのこと。

こちらは銃後で祈るしかない。
奇しくも義父は牛山純一御大より三か月早い生まれで、学年でいえば同じ年だ。

僕はようやく義父へのインタビューをする体制に入れそうになっているところ。
一日でもいい、話を聴ける機会を。


8月5日(金)の記 記憶喪失
ブラジルにて


未明に義父が他界した。
ブラジルでのオリンピックの開幕の日に人生の幕を閉じるとは。

未明の死亡の場合、ブラジルではその日に葬儀を行なうことが多いが、義母の希望で葬儀は明日となった。

ブラジルの日系社会では、義父は僕の想像以上に知名度があるだろう。
日本語新聞2紙に、義父の訃報を伝えておく。

ややこしい事情で葬儀を行なう霊園についてまちがって伝えてしまったことに気づき、うろたえるがどうやら訂正なったようだ。

午後、妻はへろへろになっていったん帰宅。
夕方から家族で通夜に向かうことにする。

こんな時に『ブラジルの土に生きて』改訂版がとりあえずの完成。

僕の方は激しい喪失感。
義父はブラジルの有機農業の草分けとして知られている。
相当ユニークな人生を歩んできた義父に、インタビューをしてその話を書き起こす計画を伝えて了解を得て数時間で義父は倒れ、その夜から入院して帰らぬ人となってしまった。
義父が書いているものは少なくないが、橋本梧郎先生のものに勝るとも劣らず、面白くないのである。
さらに僕は軟体そのものだが義父は堅物そのもの、そして左と右といってもいい考え方の相違もあった。

10年ほど前だろうか、義父のインタビューを記録しましょうという話になったことがあるが、その後「せんでいい」とひっくり返されたことがある。
カネにもならない申し出を反故にされて愉快ではなかったが。
義父は2年前から要介護生活となった。
また今年になって、知らないうちに義父が編集も校正もすっとばして無農薬栽培がらみのエッセイ集を自費出版した。
これが内容も装丁も他人様にお見せするのが恥ずかしいレベルと僕は判断して、せめて日本語として読めるものへの手直しをさせていただきたいと申し出ていた。

ところがビデオ編集作業の不可解な事故が続いてしまい、義父の本の件も思い切って僕が新たにインタビューして書き起こそうと発意して、ようやく気が熟したのを感じたとこだった。
義父についての基本的なことが、書き残したものからでもわからない…
アカの他人の人生をさんざんほじくり返しておいて、身内の方は手つかずとは、ああ情けなや。

義弟と同じ、火葬のできる霊園が葬儀の場所だが、サンパウロ市の外になる。
夕方のラッシュにぶつかり、2時間以上の運転となる。

オリンピックの開会式も、広島への現場投下時間も通夜の場で過ごす。

妻を残し、子供二人と帰宅。
ただでさえ通しオリンピックがますます遠くなった。

管理人の櫻田博さんのご厚意で、このウエブサイトの横並びに義父のウエブサイトがある。
タイトルは『私の科学的有機農業』。
http://www.100nen.com.br/ja/tsuzuki/


8月6日(土)の記 マルタの手記
ブラジルにて


僕はカーナビ等がなく、運転もとろいので、義弟が葬儀を司っていただく阿闍梨を迎えに行くことになった。

こちらもなるべく早く斎場に向かうべく、グーグルマップで見つけた近道に挑むが…
見事に迷い、子供のアプリのナビでなんとか軌道に乗せる。

霊園の名前を訳すと「平和の森霊園」、今日は8月6日広島原爆投下祈念日。

日本では金額の松竹梅を決めれば、後は葬儀屋任せでなんとかなるが、こちらはそうはいかない。
十字架が正面中央に飾られ、祭壇に聖書の置かれたホールで仏式で行なうことになり、しかもブラジルでは数少ない火葬場なので、段取りがイレギュラーである。

僕がスナップ程度の写真を撮ることになり、着席しないで花輪の近くで立って遊撃手として臨機応変に動くことにした。
焼香の煙がホール前方に蔓延してきたため、サイドの窓を開けるとか。
アクセスのよくない斎場だが、当地の邦字紙に葬儀についても記事に出してもらったこともあり、香典ドロボーにも注意。

終了後、帰路は僕が阿闍梨を車でお連れする。

そのまま妻の実家に寄り、未亡人と諸々のお話。

フランスから来ている姪がわが家に泊ることになった。
こちらも疲れがあり、本来ならイッパイ飲んで寝てしまうところだが、姪に食べたいものを聞き「マルタ役」を務めることに。
手作り餃子に食指が動いたようだが、すでに19時半、餃子の皮を買えない。
ジャージャーメンというのを食べてみたいとのことで、挽き肉やキュウリの買い出しに出る。


8月7日(日)の記 御手洗と仏語
ブラジルにて


拙宅に泊った在フランスの姪に、朝はアンコのダンゴかみたらしダンゴをふるまおうと提案。
姪はミタラシというのを食べてみたいという。

生涯、二度目のみたらし団子づくり。
タレも先回のような片栗粉のダマは防げた。

食の細い彼女が五本も平らげ、家族で驚く。

さて。
とりあえず目鼻をつけて寝かせてある『ブラジルの土に生きて』redux.
明治生まれの老日本人移民夫妻を主人公に、子・孫・曾孫、在アメリカの妹夫妻、在スイスの日系人とスイス人妻、フランスに亡命した娘とフランス人の夫など、様々な国と言語が飛び交い混じり合う世界だ。
フランス組の会話のなかの短いフランス語の発言2箇所が訳せず、とぼけようとも思っていた。

みたらしで腹をみたした姪に、その部分を試写してもらう。
数回の聞き直しで、クリヤーしてもらった。
本筋、大筋には影響ないが、こうした細(ささ)やかな会話が字幕で訳し込まれているのも悪くない。
さっそく字幕化。

つぶやきより、ささやき。
つぶアズキより、みたらし。


8月8日(月)の記 ぼちぼち再開
ブラジルにて


とりあえず一日断食。
義父の訃報の件で、僕が窓口になっている人たちとのネットでのやり取り。

重なる事故後、根を詰めたビデオ編集作業のため中断していた古新聞のチェックを再開。
だいぶ古新聞をためてしまった。

人類の農耕の開始は、単一グループでなく、中東で同時期にいくつかの狩猟採集民の異なる集団が同時期に開始したとの最新の研究報告の記事など、後に精読。

こっちは断食だが、家族のために先週に引き続き、おでんをつくることに。
カラブレーザソーセージの燻製、青菜を入れるのが岡村ちゃん流ブラジリアンおでん。


8月9日(火)の記 新聞によりますと
ブラジルにて


今日の日中は、たまった古新聞のチェックを中心にいってみる。
テレビをつけてみると、オリンピックの諸々の競技中。
女子柔道やら体操、ついつい目が離せなくなり、作業が進まない。

手はすぐにインクまみれになるし、うだつの上がらない行為だが新聞チェックは僕にはネットサーフィンより桁違いに知的生産の手ごたえがある。

選り分けて、夜間に読みこんだポルトガル語の記事より。
・オリーブの木は人類が最初に栽培化をはかった樹木とみられる
・キャパ夫妻らのスペイン内線時代の未発表の写真が大量に発見され、サンパウロで展示される
・ブラジルは1930年代、ドイツ本国外で最大のナチス党員を抱えていた
・サンパウロ市中心街ではレストランが廃油を未処理のまま大量に下水に流し、下水道の詰まりが深刻に
等々。

ビデオ編集事故の連続と義父の件でうろたえ続けているうちに、かえすがえすも惜しい展示を逃してしまったことに歯ぎしり。


8月10日(水)の記 大学都市をショートカット
ブラジルにて


このウエブサイトの総管理人、櫻田博さんのご厚意により、放置状態だった義父のウエブサイト
『私の科学的有機農業』 http://www.100nen.com.br/ja/tsuzuki/
の管理を引き受けさせてもらうことになる。
朝から思い切って、このサイトをいじっていた時だった。
義母より義父の四十九日法要をどうするかの件で電話。

会場候補地の下見をするため、さっそく今から動くことになった。
サンパウロ市の南から西まで、渋滞なしで小一時間の運転の距離にある実家まで義母らをピックアップに。

グーグルマップをチェックすると、サンパウロ大学のキャンパス内を通るコースが最も早いと出た。
ふつう、実家に顔を出すのは日曜で、土日は大学構内が通行禁止のため、このショートカットは思い浮かばなかった。

実家もサンパウロ大学も「川向う」にあるため、どの橋を渡っていくかが注意を要する。
慣れないコースに挑戦。

いろいろあって、今日は2度にわたってこのキャンパス内を通ってショートカット。
大学都市の名の通りの広大なキャンパス。

日本では、途中にある大学の構内を抜けた方が近道・早や道みたいな話はあるのかな。


8月11日(木)の記 マルタくんの焼きそば
ブラジルにて


今晩8時から、わが家からひと駅離れたカトリック教会で義父の七日目の追悼ミサ。
交通渋滞があるので、実家の関係者が早めに拙宅に来ることになった。

そうなると、時間的に軽い夕食を供することに。
なかには非日系人もいる。

鉄板焼きそばをつくるか。
それに中華風サラダでも。

フンパツしてモヤシを買いに行き、値段は安くないがサツマイモのナチュラルビスケットというのをお茶うけに購入。

教会では、僕は入り口付近に立ち、遅れてくる人の応対などの遊軍にあたることに。
10人ほどの死者の名前が読み上げられるが、聖堂の人の入りはびっしり。

ブラジルのパラナ州やミナスジェライス州などで出会った、たくさんの小さい人たちのことを思い出しながらミサに預かる。

今日も特に問題なく終了。


8月12日(木)の記 園と苑
ブラジルにて


今日も午前中から連れ合いの実家へ。
サンパウロ大学経由のショートカット、さらにカットできることに気づく。

義母に確認を繰り返しながら、当地の邦字紙2紙に掲載を依頼する義父の死亡広告記事づくり。
原稿が完成したら、それぞれの新聞社と大きさと値段、掲載日等々の打ち合わせとなるので、実家に飛び込んでの作業とした次第。

昨今の死亡広告を参考にするが、故人は90代が多い。
そもそも死亡広告の量はだいぶ減っている。
掲載料も安くはないし、遺族に邦字紙を購読する日本人一世がいなければ、まずこうした旧日本式の死亡広告など掲載することはないだろう。

いままで邦字紙の死亡広告を目にして気になっていた、古めかしい表現などを改める。
墓地という言葉をやめて「霊園」としてみたが、「墓地名」の僕の邦訳「平和の園」と園が重なってしまうのが面白くない。
悶絶の末、「霊苑」としてみることに。
「園」と「苑」の相違を調べて。
こんな調子である。

義母はこちらに任すと言いながら、なかなかなので油断ができない。
夕方、依頼した2紙のうちの1紙から割付見本記事が届く。
「、」が同じ場所に2行にわたって続いてしまい、ヴィジュアルに見苦しい。
前後の表現を変えて「、」をずらすか…

その他もいじって、弔問客のお相手もあり、なんだかへろへろ。


8月13日(土)の記 ケチュア語起源
ブラジルにて


ブラジルに移住して、最初の頃に覚えたポルトガル語の単語に「シャカラ」がある。
小農園といった意味合いだ。
先週、亡くなった義父がサンパウロ市近郊に「シャカラ」を持ち、無農薬栽培の試験場としてきた。
義父が購入した時に、このシャカラには古いチャペルがあり、わが夫妻はここで華燭の儀を挙げた。

今日は義弟、そして義父の葬儀でお世話になった真言宗の阿闍梨夫妻をシャカラにご案内。

読みはチャクラだったろうか、インカ帝国を築いたケチュア民族の語で農園をそう呼ぶので、ポルトガル語のシャカラの語源かなと思ったことがある。
しかし、さすがのインカ帝国の領土も現在のブラジルからはだいぶ離れている。

ポ語のウエブサイトで調べる。
なるほど。
ケチュア語の cakra がスペイン語の chacara となり、それがポルトガル語でも使われるようになった由。

ケチュア語起源のポルトガル語、他にもあるのだろうか。


8月14日(日)の記 ブラジルの八月に
ブラジルにて


今日はブラジルの「父の日」。
調べてみると、8月の第2日曜を父の日とするのはブラジルだけのよう。
起源は、1950年代に売上増進を図る商売人によるようだ。

サンパウロ市のダウンタウンのカトリック教会で本日、原爆投下と平和を祈念する日本語のミサが営まれるとお誘いを受けた。
午前8時から。
ブラジル初の日系人の司教がつかさどるという。
堂内には日系人のお年寄りが散見するが、リオオリンピックの開催式で原爆慰霊者追悼の黙とうを訴えてNHKなどでも取り上げられたらしい在ブラジル被爆者平和協会の方々は見当たらないようだ。

司教らは、永井隆博士の遺影を印刷した幟とともに入場。
こちらではパウロ・ナガイと呼んでいる。

「ブラジル初の日系」がウリの司教は日本語を解さないようで、日本語ミサの場でポルトガル語で説教。
原爆はオサマ・ビンラーデンの手にあるよりも聖フランシスコの手にあった方が安心、といった部分は聞き取れた。
教会内の音響のエコー、僕のポルトガル語能力では細部まで聞き取れなかった。
日本の防衛相は核兵器所持を合憲とし、東京都知事が比較都市宣言を拒否したことなど、ご存じのうえでの説教だろうか。

日本にはもちろん、ブラジルにも日本語に長けて日本語でミサをたてることのできる非日系神父は少なくない。
カトリック業界での出世には、日本語は無用のようだ。

ウイキでみつけた『原子爆弾救護報告書』のパウロ永井による結語。
「世界の文明形態は原子エネルギーの利用により一変するにきまっている。そうして新しい幸福な世界が作られるならば、多数犠牲者の霊も亦慰められるであろう。」

慰められるどころか。
犠牲者の霊の怒りに期待するしかないのだろうか。


8月15日(月)の記 嗚呼ブラジル日系社会
ブラジルにて


ブラジルの日本語新聞2紙にお願いした義父の死亡記事は、明日掲載の予定。
1紙の方の担当女性は、金曜の段階でこちらの原稿をもとに組み上げた見本を送ってくれた
その後、メールでお願いした訂正をさっそく反映して朝一番で訂正見本を送ってくれた。
もう一紙の方の担当男性は…
そもそも電話の応対からして奇妙。
途中で先方が無言になってしまうこと、しばし。

先方から電話がかかってくると、交換手か秘書の女性にかけさせているらしく、こちらが応対すると、そのまま待たせておいて、しばらくして担当の巨匠が電話口に出るのだ。
こうした電話は日本では受けたことはないが、ブラジルでは知る人ぞ知る日本相手のマスコミコーディネイト業界の巨匠が、これをされる。
非日系人からこうした電話を受けた記憶はない。

さて、同じ大きさの死亡広告を出すのに、アテンドのよくない新聞社の方がはるかに高い。
しかもこちらがカネを出して広告を出すのであり、こちらにも見本を送るよう頼んでみた。

先方がメールで送ったと交換手経由の電話をしてきても、受信の気配はない。
掲載は明日なので、気ばかり焦る。

ようやく届いた見本は、こちらの送った原稿とだいぶ違っている。
データで送っているのに、なぜに?
電話で問題の場所を指摘するが…
先方とは日本語で話しているのだが、日本語の広告の記事の訂正を頼んでいるものの、一例に「行を変えてください」という日本語が通じないようだ。

ギョギョギョーである。
はじめからポルトガル語で話せばよかった。
ポルトガル語で日本語新聞の日本語の死亡記事のやり取りをすべき時代に、ブラジル日系社会は突入している模様。

ま、日本語のミサにやってくる日系人カトリック司教もポルトガル語のみだしな。


8月16日(火)の記 無縁と勘当
ブラジルにて


昨日に引き続き、早朝の散歩と買い物。

帰宅時に届いていなかった本日の邦字紙2紙を、いっとき置いてからアパートの階下におりてピックアップ。
本日掲載予定の義父の死亡広告をチェック。
あ。
応対の滞った一紙の方、さらに2か所の誤植があった。
義弟の時の別社の誤植のような致命的なものではないが、どうしてデータで原稿を送っているのに、こんなに誤変換されるのだろう?
締切りギリとはいえ、まちがった見本が送られてOKを出してしまったから、文句も言えない。

不思議なこと。
死亡広告の対応に誠意がこもり、敏速だった一紙の方の一面の大きな社説に拙作『アマゾンの読経』のことが取り上げられている。
http://www.nikkeyshimbun.jp/2016/160816-column.html

まさか確信犯ではない、偶然だとは思うが。
折しも昨日は祖国の敗戦祈念日、旧盆であるが、昨日の月曜は邦字紙の休刊日だった。
この記事を書いた深沢編集長は、義父の海軍兵学校時代の思い出を記事にした人でもある。

さらに、思えば。
2004年、まずは9年がかりで『アマゾンの読経』初版を完成させた。
折しも義父は入院中だったが、病室にビデオデッキがあったので、僕にとっては命がけだったこの作品のビデオテープをお貸しした。

義父に感想を求めると「感動が足らん」のひと言。
唖然としたが、具体的にどういうことかと尋ねてみた。
作中の数多い登場人物のなかの、ルポライターとして主人公の藤川辰雄氏に取材をしたことのある人へのインタビューのシーンがまわりがうるさくて聞き取れなかったというのだ。
ご多忙なルポライターになんとか時間をつくってもらい、先方の指定した喫茶店で録画したので、周囲の雑音が確かにあるが、聞き取れないことはないと僕は判断したシーンだ。
劇映画ではないのだから、静かとは言えない病室のテレビで寝ながらご覧になられたのでは…

義父はブラジル日系社会でも少なからぬ寄付をしてきた人だが、僕は自分の記録活動で義父に持ち出しのご奉仕はさせていただいたことはあるものの、金銭的にはまるで援助をしてもらった覚えはない。

このあと、義父に頼まれて僕がお付き合いをしていた植物学者の橋本梧郎先生と義父との間に入って僕には面白くないことがあり、義父にはその後の拙作をお見せすることはなくなった。

義父にはカンドーの足らんかった拙作のことが、義父の死亡広告掲載の日の日本語新聞の一面の社説に取り上げられるとは。
こんな娘婿、あの世から勘当してちょうだい。


8月17日(水)の記 ドキュメンタリスト牛山純一
ブラジルにて


ガラにもなく、女子バレーボールのブラジルX中国戦などを見たり、ついでに女子ビーチバレーまで見てると日付が変わっている。
それから、残りわずかの『テレビは男子一生の仕事 ドキュメンタリスト牛山純一』(鈴木嘉一著、平凡社)を読了。
まさしく、大河記録。
大アマゾンのような大河を、鈴木嘉一さんのナヴィゲートで極めさせていただいた思い。
充足感より、こんないい旅は、もう二度とないだろうという寂寥感が先に立つ。

牛山純一についての証言者の錚々たるメンバーのなかに、不肖の一兵卒・岡村ごときも取りあげていただき、かなりの量を割いて、よくこちらの意を汲んでくださった。
自分についての稿を何度読み返しても、涙腺が緩んでしまう。

これは20世紀の日本の物語であり、テレビ論であり、ドキュメンタリー入門書であり、組織論でもある。
そして、テレビがだめになったのは安倍と籾井になってからだけではなく、50年以上前にも危機的状況があったことを教えてくれる。

1929年11月から翌年2月までの3か月の間に、義父続木善夫、佐々木治夫神父、そしてドキュメンタリスト牛山純一と、強烈な三人が生まれている。

いまや佐々木治夫神父のみがご存命だが、あの人はもう即身成仏。
牛山大帝は、鈴木さんのこの仕事のおかげで成仏させていただいた。
さあ、続木善夫をどうしよう。
無農薬農業を研究するブラジル人にでもホトケにしてもらえればありがたいのだが。


8月18日(木)の記 五輪と古新聞
ブラジルにて


昨日に引き続き。
ビデオ編集事故以来、滞っていた古新聞の山のチェック。
テレビでリオ五輪中継を流しながら。

今さらながら、わが家のテレビで「スポーツTV」というところだけで16チャンネルもリオ五輪関係を放送していることを知る。
全16画面をモザイクで流しているチャンネルもあるのだが、どの画面がわが家だとどのチャンネルに対応するのかがわからず、まあめんどくさい。

「ながら」ながら、今日は日本の女子バドミントンダブルス、そしてブラジルの女子ヨットの金メダル獲得までを見届けてしまう。
いずれもこれまで中継を見た覚えもない競技。

夕方、先月、近くのテレビ修理屋に持って行ったモニターを取り返しに行く。
延ばし延ばしで翻弄されて、けっきょく修理不能。
最初からメーカーのサービスセンターに持っていけばよかった。


8月19日(金)の記 17インチの彷徨
ブラジルにて


テレビモニターのインチ数は、画面の対角線の長さだと、おそらく初めて知る。
『テレビは男子一生の仕事』の牛山純一に前世期に使えた身でありながら、お恥ずかしい。

昨日、近所のテレビ修理屋から奪還した4:3サイズのモニターは、計ってみて17インチと知る。
この大きさだと、収容するバッグが限られてしまう。
丸い台座の部分は取り外せないので、さかさまにして台座は剥き出しで収容。

メーカーのLGのサービスセンターまでは地下鉄とバスの乗り継ぎで、とグーグルマップが教えてくれる。
この荷物を持ってブラジルの市バスはめんどくさいので、地下鉄と歩きにするか。
そもそも朝のラッシュが心配。

午前9時より営業のはずのサービスセンターに念のため、電話。
まずはお話し中。
次は長たらしい録音ガイダンスを聞かされたあげく、コールサインが続いてもアテンドしない。

イヤな予感がするが、午前中に済ませたいその後の予定に差し障るので、決行。

そこそこに混んだメトロを乗り継いで。
ほどほどに歩いてサービスセンターを発見。
ようやくこっちの番がまわってくるが、5年以上経った製品は修理しないとのこと。
わがモニターは10年以上経っているかと思ったが、2007年製だった。

どこか修理可能なところを紹介してもらえないかと聞くと、A4用紙に刷り上げたLG公認の旧式モニターの修理に応じる店のリストをくれる。

リストに、東洋人街リベルダージがある。
重いモニターを抱えたままのため、この近くでの別の予定をキャンセル、東洋人街に向かう。

ようやくその場所を探し出すと…
最新の大型モニターしか修理しない、と門前払い。

はっきり言って重く、取扱い要注意の17インチモニターを担いで人ごみのなかをこれだけ歩き回って、さらに冬なのに日中はぽかぽかで、もう汗だく。
罰ゲームの境地だ。

別の用事もキャンセルして、地元に戻る。
けっきょく、わが家からひと駅離れた、このあいだ17インチの中古モニターを買ったところでみてもらうことに。
振出しに戻る。

午後は銀行に指紋登録問題で翻弄されるが、もう詳細省略。


8月20日(土)の記 Bacillus Subtillis
ブラジルにて


今日のタイトルは、納豆菌の学名。
日本でこそスーパーで3パック100円未満で安売りされている納豆だが、こちらではぜいたく品である。

これまで何度か作成にも挑んだが、あまりうまくいかず、続いていない。
日本で、納豆作成も可能なヨーグルトメーカーでも買ってこようかと思いつつ、検索してみると…

ヨーグルトメーカー使用で納豆作製に失敗したが、炊飯器の保温機能で成功、という記事に出会う。
にゃるほど、炊飯器の保温機能か。
レッツ・トライ。

一昨日、大豆を二合ほど茹でた。
実家からもらってきていた輸入品の納豆そのものを混ぜ込む。
布巾をかぶせて、保温に。

24時間経過。
納豆菌が繁殖した気配、ゼロ。
さあどうしよう。
大豆そのものは痛んではないようで、煮豆にでもするか…

敗因を考える。
炊飯器の保温温度について調べると、ふつう70度ぐらいのようだ。
納豆菌の活動に最適なのは40度弱と記憶する。
納豆菌には、熱すぎたのだ。

もう一度、ネットで炊飯器納豆をいろいろ調べてみる。
在外日本人の投稿が多い。
納豆安売り文化圏から外れた同胞たちの、地球上各地での努力がいたましい。
よく読むと、時どき電源をオフにして、オンオフを繰り返し、というのがいくつか。
24時間はこれを繰り返すのだが、湯たんぽ方式でお湯を何度も取り替えるよりは簡単。

昨日午前中よりこれに挑戦、夜にはネバリを確認。
まる一日経って、そこそこな感じ。

レシピではこれを冷蔵庫で一日は寝かせるのだが、まずはいただいてみる。
うむ、大豆が固かったか。
だいぶ茹でたつもりだが、もっと茹でないと。

夜、ブラジルが辛くもサッカーでドイツを下す。
金メダル授与式で、功労者のネイマールが「100% JESUS(イエス)」の鉢巻。
こっちは「100% Bacillus」でいくか。

全世界の旅に納豆を持参するという小泉武夫先生も、納豆作りは大変なので自分ではつくらない、と著書にあったな。
あの本、義父のところから取り戻さないと。


8月21日(日)の記 80年目の東京物語
ブラジルにて


路上市で小ぶりのカツオ、サバ、アサリに似た二枚貝、パイナップルを買う。
貝のなかには牡蠣の殻、そして石英のかけらも混じっていた。

オリンピック男子バレー決勝は、妻の実家で観戦。

帰宅後、あさりバター、カツオたたきなどの夕食を早めにこさえる。

リオオリンピックの開幕式は義父の通夜でそれどころではなかった。
閉会式はテレビ中継で。

それにしても、強烈な雨だった。
亜熱帯の雨の美しさ。

だが、地獄から現れたようなグロテスクなキャラクターの登場で、1943年10月21日、雨の神宮外苑・学徒出陣式のイメージが覆いかぶさり、吐き気を覚える。

その3年前に予定されていた、ヒトラーのベルリン大会に継ぐはずの東京オリンピックは幻となった。


8月22日(月)の記 南回帰線の氷雨
ブラジルにて


次の訪日、ブラジル出家まで3週間を切ってしまった。

未編集作品の作業、ブラジル国内遠征など、さあどうしよう。
延び延びになっていた各地への連絡、気合い入れないと。

今日は家族のシフトをかんがみ、一日断食を明日にする。

冷蔵庫に入れておいた納豆は、なんだかいい感じになっている。
わが家では他に摂取する人がいない。
ひとり、冷や飯と納豆をいただいてみる。

さあ、夜はなににしよう。
サバのはらわた抜き、カツオのアラの調理は今日中にしておかないと。

外に出ると、氷雨。
帽子で防げそう。
先ほどまで、日が差し込んでいたのだが。


8月23日(火)の記 修道士逝きて
ブラジルにて


ひと月以内に三回の弔い、しかもそのうち一つはこっちが遺族になるとは。

朝。
遠方からの電話で、サンパウロの訃報を教えていただく。
フレイ・アレシオ(アレシオブラザー)と呼ばれて親しまれていたブラジル人のフランシスコ会士アレシオ・ブローリング神父が、亡くなられた。
フレイ・アレシオには、僕のブラジル移住当初からお世話になっていた。

フレイ・アレシオはブラジル南部のドイツ移民の家庭に生まれた。
1962年より2年間、日本に留学して日本語を学び、その後、50年近くブラジルの日系社会で日本語でミサをたてるなどして貢献してくれた。
1995年からは「そそのかされて」朝鮮語も学ぶことになり、ブラジルのコリアンコミュニティにも貢献された。

葬儀のミサは、サンパウロの中心部にあるフランシスコ会修道院で行なわれた。
ブラジルで日系、コリアン系がともに集う機会などは他に覚えがないほど。

日本語、朝鮮語で聖歌が歌われる。
フレイ・アレシオの貢献はブラジルの日系社会への方が歳月のみならず多大だろうが、聖歌を含めた葬儀での存在感はコリアン社会の方が力強かった。

ドイツ系ブラジル人修道士が生涯を捧げてくれた日系とコリアン系は、お互いを知らなさすぎるのでは。
同じ信仰の場を持ちながらも。

帰宅後、『薔薇の名前』をDVDで鑑賞。
これも、フランシスコ会士が主人公。


8月24日(水)の記 たのしいサンパウロ
ブラジルにて


まだまだ座業は尽きないが、そろそろ引き籠りから「啓蟄」したい。
午後、早めに簡単な夕食をこさえて出家。

まずはパウリスタ地区のなじみの旅行代理店へ。
ニューフェイスの日系のスタッフがいる。
話してみると、僕の日本のアミーゴの、ブラジル日本語教師時代の教え子だった!
ついつい話し込む。

ブラジルでは、ふつう木曜で映画のプログラムが変わる。
知人の娘さんが監督したというインデペンデント系の劇映画、明日には変わりそうな気がして今日、行ってみる。
するとなんと今日は短編映画祭のオープニングがあるため、昨日で上映打ち切りになったとのこと。

いやはや。
ここまで来た地下鉄代がもったいない。

まずはパウリスタ大通りのショッピングモールで開かれていた写真展をひやかす。
ブラジルの自然分娩系の出産を、女性フォトグラファーたちが撮ったもの。
出産のシーンは、死ほども撮られていないかもしれない。
面白い。

昨日、葬儀ミサの前に急ぎ見たキャパの未発表写真展は、インパクトが強すぎて正視できなかったのだが。

ついで、デジタルアート展。
水系の面白いのがあった。
売れ筋のアート界の巨匠のものより、ずっと野心的でクリエイティヴ。

時間調整の末、ソクーロフの最新作『FRANCOLANDIA』の20時の回に。
ブラジルのシネフィルたちと一緒に巨匠の最新作を見る喜び。
難解なれども、強烈。

ちょうど頼まれ原稿でサンパウロの美術館巡りの話でもでっち上げようと思っていただけに、なんというタイミング。

帰宅後、検索するとこのシャシン、10月には祖国でも封切りと知る。
フランコランディア、その言葉の意味が面白い。


8月25日(木)の記 いまさらながらオリンピックどころか
ブラジルにて


遅ればせながら先の訪日時の御礼メール・・・
2回分の上映会のアンケートが見当たらない。

東京の実家に置いてきてしまったか?
にしても、不自然。
先回の帰路はアメリカ経由で、スーツケース内にアメリカ当局が「国防のために」こじ開けたという通達が入っていた。
その際に、散乱した可能性もあり。

アメリカの国防に協力とは、日本の首相なみではないか。

夜、ごっそりたまった区分け済みの新聞記事を少しチェック。
ブラジル奥地の無法地帯のルポ。
マットグロッソ州北部。
農地改革で入植してきた零細農民の存在が不快な大農場主がセスナをチャーターし、彼らに「農毒」を投下した。
もだえ苦しむ農民たち。

『地獄の黙示録』なみの狂気の蛮行が「戦争のない」ブラジルでオリンピックと並行して繰り広げられていた。
ブラジル奥地での零細農家や社会活動家の虐殺は、日常茶飯事。
この「農毒」爆撃は即死者は出なかったようだが、たまたまサンパウロの新聞記者の現地ルポがあったから知られることになった事件のほんのひとコマ。

どうしよう。
とりあえず来週、近場の奥地まで行ってくるつもり。


8月26日(金)の記 セントロを歩く
ブラジルにて


いくつかの用事を抱き合わせて、セントロ:ダウンタウンに出る。

まずは、散髪。
11時に予約を入れてあったが、シャッターが下りたままで近くを散策。
日本人街ともいわれる東京人街だが、まさしくチャイナタウン化しつつある。
やたらに中華料理屋が増えているが、チャイニーズ増加に伴なう遷移の一局面なのだろうか。

邦字紙のバックナンバーで気になる記事があった。
編集部を訪ねるが編集長は来客中の由、午後また出直す。
気になることは、けっきょくわからなかった。

ブラジル銀行文化センターで、キューバのアーチスト集団『Los Carpinteiros』の展示を見る。
なんの予備知識もなしにアート展に臨む贅沢さ。
なんたって、タダ、しかも並びの列もない。
物量や資金じゃないところの発想と実現がここちよい。

このセンターでは、地下にある厳重な金庫跡もアートスペースとされ、動画が上映されていることが多い。
今回は18歳未満入場禁止のお触れが。
モノクロの、ずばりホンバン映像。

が、時間と性愛をテーマにした、たいへんな物語であることに気づく。
タイトルは『Pellejo』でヨーロッパとの共同制作のようだが、手元のスペイン語の辞書でこの語は見つけられず。

経済的価値とも自分の創作とも離れた消費者の一日だったが、なんだか疲れを覚えて早く休む。


8月27日(土)の記 アルマジロの道
ブラジルにて


久しぶりにビデオ編集機に向かう。
『焼肉と観音』のDVD焼きをしようと…

トラブル続出。
午前中いっぱいかかり、とりあえず。

9月のお彼岸の、伊豆大島での行事に備えて。
先住民のトゥピー語で「アルマジロの道」を意味する地区に住まう学僧を訪ねる。
こちらからのお願いを、快諾していただく。

まあ、こうした浮世離れしたことのできるありがたさ、感謝である。

今年、沖縄でご縁をいただいた人に、自分の役割は救急車、とたとえていただいた。
すでに救急車の役どころを超えている感もあるが、引くわけにもいかず。


8月28日(日)の記 ブラジルのえんがわ
ブラジルにて


連れの実家に出頭する前に、路上市へ。

魚屋のアニキがヒラメをすすめてくる。
量ってもらうと、値段が張り過ぎる。
もっと安い魚は、と聞くと、より小ぶりのヒラメを取り出した。
ヒラメでいくか。

夕方、実家からの帰宅後に刺身におろす。
小ぶりながら、えんがわ部分あり。

昨今はこちらの人間にもマグロのトロ身などを狙うのが出てきた。
ヒラメのえんがわは、さすがにまだブラジル人たちには未開の分野といえよう。

そうか、えんがわは鰭部分の筋肉なので、コリコリしてるというわけか。
ちょっと生臭いので、万能ねぎを散らし、我流もみじおろしも作成。

バタ焼きもまたよろし。

さあ訪日までに奥地遠征もあり。
だんだん追い込まれてきたぞ。


8月29日(月)の記 本の洪水
ブラジルにて


なにかと追い込まれてきたが。
思い切って、大イベント・書籍のビエンナーレに行ってみる。
先回のぞいてみてから10年以上のブランクあり。

期間が限られ、入場料も安くないので、しばらく行きそびれていた。
サンパウロの拙宅だけで、一生かかっても読み切れないほどの日本語の書籍がある。
さらにポルトガル語の本まではとても、という思いもあり。

月曜の朝イチなら、さほど混んでいないと思いきや。
午前9時過ぎ、地下鉄チエテ駅から会場への無料バス乗場は長蛇の列。

広大なエクスポ会場を埋め尽くしているのは、主にブラジルの出版社、書店などのブース。
全体をざざっと走り見るだけでも、2時間半ほど所用。

セールス担当から「学校の先生ですか?」などと聞かれるのも悪くない。
教材を探しに来る教師も多いのだな。
小中高ぐらいの生徒が団体でいくつも訪れていて、遊園地か修学旅行の土産物買いの時間の様相。

まるで本を買うつもりはなかったのだが、写真集、画集、絵本などを日本へのお土産用も含めて購入。
大判で重いものばかり。

グローバルな書籍の祭典だが、日本系のものは…
僕が見つけたものは新興宗教の出版ブースが二つ。
ブラジルの書籍オリンピックでは、わが日本はまことにお粗末である。

本の重さで肩が痛い。

さあ明日からはフマニタスへ遠征だ。
今週は、断食中止。


8月30日(火)の記 飛んで火に入る記録映像作家
ブラジルにて


午前6時台にサンパウロを出家。
ラッシュのはじまる大都市を脱出。

ひたすら運転。
途中の休憩、昼食は巨大チェーン系ははずして、場末系で。
気分は『明日に向って撃て!』。

フマニタスに到着、佐々木神父と再会。
こちらは明日からたいへんなヤマ場を迎えると知る。

これはすぐに失礼した方がいいかもと思うぐらい。
それは僕がこちらに来るとお伝えしてから決まったことであり、どうぞ、とおっしゃっていただくが。

起こっていることには意味がある、その意味を考えるというのが僕の基本方針だけど。
幸か不幸か、今宵からの宿の神父館はネットがつながらない状態。


8月31日(水)の記 ばら の とむらい
ブラジルにて


朝、フマニタスのクリニックでようやく電波をつなげる。

日本から、木村浩介さんが亡くなった、との知らせ。
ことばを失う。

拙作『ばら ばら の ゆめ』で主役をはった、あの木村さん。

昨年、病をおしてまさしく決死のブラジル旅行に来られた。
リオ、サルヴァドールなどをまわってサンパウロにいらした時に、郊外の一泊旅行にお連れした。

山中の電波の弱いエコロジーロッジで、ベッドに横たわりながら執拗に写真を多用したブラジル旅行記をフェイスブックにアップしようと挑み続ける姿は、痛ましいほどだった。

仏教系の強い信仰をお持ちで、不思議な話もうかがったこともあった。

帰国されてからは、わずかにフェイスブックのアップがあった程度だった。
お体がよろしくないのだろうとは思っていたが、まさか亡くなられるとは。

旅行の時に少しだが、動画を撮影していたはずだ。
サンパウロに戻ったら、さっそく再生してみよう。

祈りの場、フマニタスと佐々木神父は今日からたいへんなヤマ場を迎える。
神父さんに僕の友人の訃報を伝えても、スルーされるだけだろう。

ひとりで祈ろう。


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