10月5日(土)の記 SAGRADO PROFANO (2024/10/07)
SAGRADO PROFANO ブラジルにて
今日のお題はポルトガル語、直訳すると「冒涜された神聖さ」。 サンパウロ大学で無料公開される映画の特集のタイトルで「宗教の冒涜」ぐらいに意訳してもいいかもしれない。
企画概要からもラインナップからもキリスト教がテーマのようで、日本映画が一本ある。 園子温監督『愛のむきだし』、約4時間の長編だ。
概要を読むと、聞き捨てならないストーリーだ。 万難を排して、ペットボトルにウーロン茶を入れて参上。
ポルトガル語のあらすじにあった通りの設定で、驚く。 両親と息子の3人のクリスチャン(カトリック)の家庭。 母は息子に「マリアさまみたいな女性と結ばれるように」と言い残して若くして病死してしまう。 父はその後、数年間の猛勉強をして「神父」になる。
高校生になった息子は神父となった父と同居するが、父は息子に毎日「懺悔」を強要する・・・。
カトリックのことを少しかじると、これは何重にもありえがたい設定だと思う。 カトリックの神父や修道女は、独身であることが原則だ。 歴史的には未亡人になってから修道女になったケース、内縁で子もなした女性と別れて神父になったケースがあることは知識として知っている。 が、現代では寡聞にして…、
神父や修道女をやめて結婚したというケースにはしばしば触れるが。
息子が神父になったと父と同居して、しかも毎日「懺悔」(カトリックでは「告解」というのがふつうかと)させられるというのは、まずありえないと思う。 妻を亡くした父親がプロテスタントの牧師になった、というのならまだわかる。
なぜ原案・脚本も兼ねた園子温監督はカトリックという設定にしたのか? これは主人公が母親に植え込まれた強い聖母マリア嗜好を持っている必要があったからだと気づいた。
プロテスタントでは、教会に聖母マリア像はなく、マリア信仰はないと言っていいからだ。 しかしこの映画で描かれるカトリック神父は、カルトの聖職者といったところで、カトリックそのものに対する誤解と偏見を助長するばかりだと思う。
映画のクレジットには「カトリック茅ケ崎教会」と掲げられている。 教会をロケ地として提供して名前まで掲げるからには、脚本にも目を通して善意のアドバイスぐらいはしていてもよさそうだが。
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